メディアに対する暴力は過去にさかのぼる

クリスチャン・デルポート『メディアに対する暴力は過去にさかのぼる』

「蛍光イエロー・ヴェスト」という新しいデモを前に、歴史家のクリスチャン・デルポートがこの運動とメディアによるその対応を分析する。


あなたは「蛍光イエローのヴェスト」運動に対するメディアの取り扱いについてどのように分析していますか。
私がまず衝撃をうけたのは、1つの非常に特殊な紛争に直面したジャーナリストたちに手がかりがないということです。政府には交渉する相手がおらず、メディアも同様でした。そのためテレビ局は、ときに極端に相反する発言をばら撒き、それがどのようなものであろうと取り消すことはありません。最近ではまたフランス・アンフォで、トゥールーズの運動の主導者の1人ベニャマン・コーシーが発言していました。彼は何ものかを代弁しているわけではないのですが、それは彼に知名度があり、彼がしっかり喋り、テレビ局には発言者が必要なので頼まれたのです。


この運動が始まった頃は、人々がジャーナリストたちにある共感を感じていたこともあったのではないですか。
彼らの側に先入観などなかった、とは信じられません。


あなたにとって先週の土曜日で印象的だったことは何ですか。
ことは地方で起こっているのですが、あらゆるカメラはシャンゼリゼにフォーカスを合わせていました。その反対にその1週間後には、ごく局地的なデモを報じるために、みんなが地方にいました。私は、この新しいタイプの運動をどのように把握するべきなのか、メディアには分かっていないのだという印象を何よりも抱いています。


「新しい」という言葉で何を言おうとしていますか。
自然発生的な運動で、SNSによってこれは動きます。3週間が過ぎた今でも、代表として語る人物も明らかな主張もありません。知られているように、自然発生した運動であっても、1つの運動が進めば彼らは総会とか連携といった形でまとまり、代表者を選んでいます。今回の場合は、「蛍光イエローのヴェスト」と同じ数の主張があるのです。


デモの参加者たちによるメディアへの暴力はどう考えていますか。
この暴力は、1995年のストライキの以前にまでさかのぼります。そして政治家たちにもこの事件の責任の一端はあるのです。エドワール・バラドゥールの選挙運動期間に、すでにTF1は彼のために動いていると言われていました。もっとも、それは全く嘘だったわけでもなかったのです。そして国民前線は、その会合にジャーナリストたちを呼び寄せました。ニコラ・サルコジも、失脚したので2012年に同じことをやっています。現在では、暴力が広がっていて、現職の共和国大統領はそれとは全く関係ありません。大雑把にいえば、政治的なものがすべての原因なのです。それはまさに政治の機能そのものであり、それが国家を管理します。なので政治家たちが犬を放つなら、最終的にそれはメディアに向かって鬱憤を晴らすよう仕向けるようなものなのです。メディアに対して何年も潜んでいた怒りが湧き上がったのです。それが当たり前になった。そして今日それが、この手のつけようのない運動という形を取っているのです。


この怒りはもっぱらBFMTVに向かっているのですか。
15年前、その暴力はむしろTF1とその番組「20h」に向けられていました。最も有力な報道局BFMTVがその象徴に、それゆえそのターゲットになりました。LCIやCNewsの特派員たちは、現場に行くのにマイクのキャップを換える必要がありません。この土曜は、この3つのチャンネルをガチャガチャと換えながら見ていたのですが、情報の取り扱い方にはどれも大した相違はない。もう長い間、人々はこの放送局がジャーナリスト全体を象徴しているかのごとく攻撃しているのです。15年前に人々がTF1を介して批判していたのは、この仕事そのものなのです。


メディアは、どこも同じ報道をループして繰り返していますが。
それは報道のしきたりなのです。BFMは現場でやられましたが、他の報道局と同じようにBFMはかなりの視聴率を得ています。テレビ視聴者がチャンネルに釘付けになるようにしなければなりません。テレビとはスペクタクルショーなのです。24時間放映し続けるテレビ局なら、情報源を確保せざるを得ません。情報は刻一刻とは更新されません。それもテレビ視聴者のせいなのです。いずれにせよテレビ画面にずっと張り付いてはいないのです。あなたはこの運動を大きくしたSNSを思い出すんじゃないでしょうか。

逆説として、これは恐ろしいことですが、ソースが明らかにされていない映像を信じるのはSNSによってなのです。ジャーナリストというのは、自分たちの情報ソースを明らかにするものなのです。そしてその報道を、人々は信じないのです。かつて新聞とは、政治的な意図を持った新聞でした。朝になれば人々は、自分が読みたいことを読むために新聞を買いました。それはあなたの考えを強化してくれました。それがプロパガンダの原則です。SNSというのは、報道よりもプロパガンダに近いものなのです。それはコミュニティの流儀によって機能します。コミュニティというのは、それはセクトにつながるもので、人はその中に自分の声や姿を見出すのです。


メディアはそれをやりすぎたのですか。
この社会運動は前代未聞です。80%のフランス人がこれを支持しています。そして次に、「蛍光イエローのヴェスト」は、テレビ視聴者が生み出したも同然な社会集団なのです。


この社会運動を言い表すために使われた、ジャクリーの農民一揆とかサンキュロットなどの言葉をどう思いますか。
うまく言い現せない、ということはあらゆる社会運動の特徴だ、というのがジャーナリストたちの決まり文句の1つです。おそらくそれは、一定数のジャーナリストたちに教養がないというしるしなのでしょう。


この社会運動を支持している人物が何名かいますが。
その読者層ですよ。もしもその人物たちがエリート層の人たちなら、自分自身と決別してしまわないよう自らに誠実なのです。「五つ星運動」を作ったベッぺ・グリッロとか漫画ですよ見て。この「蛍光イエローのヴェスト」運動に歯向かう人物がいるなら、おそらくそれはベッぺ・グリッロですね。


C8テレビで、シリル・アヌナがこの運動をスタジオに招きましたが。
そして、たぶんそれは彼、ベッペ・グリッロですw。彼の視聴者たちは大衆読者層です。「蛍光イエローのヴェスト」というのも大衆で、だから彼はスタジオに大衆を招き入れたのです。こんなことは政界では何の値打ちもありませんが、その画には力があります。


そして政治家たちは。
人々が明らかにしているのは、全体として彼らは現場で歓迎されていないんだということです。彼らはみなこの社会運動を骨抜きにしようとしています、1人を除いて。それはエマヌニュエル・マクロンで、彼にはそれができないからです。全員には席がないでしょう。一般的に言うなら、勝者は複数ではなく1人だけです。その懐柔は月並みです。ここで唯一異なるのが、この政治的なスペクタクルショーに対する懐柔がとても鷹揚だということです。これは極右から極左にまで及びます。これがこの社会運動の混乱を物語っています。一体誰がメランション、ル・ペン、ウォエルスやアモンと同意することができるというのでしょうか。みんなは途方に暮れています。


この運動は長引くのでしょうか。
まず、クリスマスが来るでしょうw。その次は、話し合うには2人は必要だということです。信頼できる、ひとかどの正当な交渉相手がいない限り、どうすればここから脱却できるのか分かりません。こちらではとても強硬で、あちらではとてもサンパな形の、極端に変動的な動員なのですから。政府は相手陣営の自壊を見込んでいて、崩壊すると予測しています。問題なのは、これが終わったとしても「蛍光イエローのヴェスト」が人々の記憶にとどまるだろうということです。それは怒りよりもまずいことです。怒りであればうまく方向付けられるのですが、絶望は...
(L’Obs誌 TéléObs誌サイト 2018年12月1日)