「ネオリベラリズムは息切れしている」

ネオリベラリズムは息切れしている」

 

この哲学者にとって、アメリカのジャーナリスト ウォルター・リップマンの影響から生まれた生物学的な論文が、この数十年間で政界をおかしくしてしまった。

そして市民は「適応するんだよ」と諭されている。

黄色いチョッキ運動の人々は、ネオリベラリズムと、権力の行使の権威主義的な見解との間に有機的な関連があると強調している。哲学・科学論の教授バーバラ・スティーグラーは、その近著において、いくつかのネオリベラリズムの起源や、また特にその進歩という生物学的な用語の流用をたどることで、ネオリベラリズムの危機に関する現状の分析を明らかにする。

 

あなたはなぜこの生物学の用語を政治や社会の領域に拡げることに関心を持ったのですか。

バーバラ・スティグラー: この数十年来、生物学的な言説は社会や政治の領域を支配しているのです。「適応しなければならない」「進歩しなければならない」とか。しかしながらヨーロッパでは、人々は1945年から、生物学的なことと政治的なことを混同しないようにしています。この矛盾が私の調査のモチベーションとなりました。

 

それはあなたがアメリカで行った調査ですね...

私はウォルター・リップマンの著作に「適応」というキーワードがあることに気付きました。彼のLa Cité libre (1937年)という著作にこのダーウィン主義的な背景をみつけたのですが、社会的ダーウィン主義とは真っ向から対立していました。アメリカでは、ウォルター・リップマンは20世紀を象徴する人物です。彼は大統領顧問であり、外交官であり全国で読まれている新聞のコラムニストでした。彼はヒトの環境とその適切な適応とのズレを分析します。そこから生まれたのが「遅滞」の概念です。そして彼がそこから、統治の手法に関して、教育という用語によって引き出しているものはゾクゾクするものです。

 

その概念とは、ヒトは自分である環境を作ってしまったということで、その環境にヒトは適応していません。彼が「大きな社会」と呼ぶこの環境は、グローバル化、つまり世界規模でのますます熾烈な労働の分断が支配的となった、工業化した環境の結果なのです。人は自らの固有の環境を受け入れるようには適応していません。彼によれば、この適応は、社会的ダーウィン主義が信じているように自然に機械的には実現されないのです。事態をなすがままに任せたら、逆にすぐにこの不適応がひどくなります。それゆえ国家は手を引いてはならず、再び掌握しなければならない。それが、国民を教育する国家、国民の精神構造と欲動とを変えなければならない国家の復権としてのネオリベラリズムなのです。例えば教育は、流動性、柔軟性、多能性に対する関心を養うセンスを変化させます。これは教育の改革を促すでしょう。

 

あなたは教育について主張しておられますが、医療に関しても...

患者像についても今日では変異があります。最近に至るまで患者は受動的なままであるとされていました。この「医療のパターナリズム」と対立する形で、患者は競合的となって、医療システムの最適化に関与しなければなりません。それが「患者主役」です。リップマンは医療を、ヒトという種をより高機能なかたちに変化させる分野だとしていました。経済学もしくは教育の領域においても、ネオリベラリズムと古典的リベラリズムとの違いをしっかり説明する、同じような概念を見つけることができます。この概念は、国家が絶対的な機能にとどまるだけではなく、教育者としての役割を持って、国民を保全し、国民を変えるということなのです。そこで、現在いくつかの最も興味深いネオリベラルの改革が、この領域に関連しているのが分かります。ヨーロッパの政治体制とは専門家たちの政府というものの完璧な一例であると人々は認識していて、国民に理解する術を与えないから、国民は無関心となっているのです。

 

私は、私たちのヨーロッパで起こったこと、特にヨーロッパ建設の政治的な失敗について理解しょうとしています。それについては細かく語りませんが、しかしあなたの考えているとおりです。ヨーロッパ・プロジェクトは、政策的に一つはドイツのオルド自由主義から影響をうけていて、これはそれ自身がネオリベラリズムの「リップマン風」ヴァージョンの影響を大きく受けています。専門家と政治家たちは、グローバル化からの要求を理解する準備ができていない国民から、その決断を簒奪しなければならない、という考え方がそれとなくあるのです。

 

リップマンはアメリカで最も偉大な哲学者の一人、プラグマティストのジョン・デューイと対立しました。その対立の争点は何ですか。

彼らには少なくとも3つの対立する領域があり、それらは繋がっています。生活と生命の進化、民主主義、そしてリベラリズムです。デューイは、リップマンは進化にはゴール、それはこの偉大な工業化社会という超越的な目的地のことですが、があると考えることで間違いを犯し、ダーウィンを裏切ったと考えます。ダーウィンは、単一のゴールがあるわけではなく、多様で局地的な環境においてその都度方向を換えるゴールの多様性があるのだと教えたのです。あなたが、ゴールがある、優れた人々(専門家の援助を受けた議員たち)はこのゴールを知っていると考えた時点から、この終末に適応するという大勢の合意をでっち上げることを意味する、民主主義の権威主義的概念となります。古典的リベラリズムは、民主主義の危険性や、統制がきかず無知なプレブだとみなしていた民衆を整理誘導する代表たち の必要性について常に主張していました。この新しいリベラリズムには、さらに歴史のゴールが判っているという考えがあり、これがこのゴールという強迫観念を説明するものです。「この方針が実現されるよう維持されなければならない」、あたかも議論の余地のないゴールがあるかのごとく。これが、古典的リベラリズムの、国家の価論的な中立性や、さまざまなゴールや価値の領域における国家の中立性という概念に対する愛着に異を唱えるものです。

 

あなたはフランスの現状をどう分析しておられますか。

私たちが生きている時代を、実はとても面白いのではないかと思っていて、それは、議論の余地のない既定方針(私たちはグローバル化に適応しなければならないという)を提示するネオリベラリズムと、どうやってその改革を教育するのかが必要だという強迫観念との間の関係を、この時代が明確にしていないからです。国民はこれらの改革を理解していなかったので、彼らを教育してその合意を得なければならないのです。それはしかし、社会のこの未曾有の動向が拒絶しているものです。そうすることが、この既定方針と教育法との間にある、つまりネオリベラリズムと権力の行使が有する権威主義的で階層的な見解との間にある、有機的な関連を明らかにするのです。

 

サヨクは完全にお手上げの様相を呈していませんか。

部分的にはその通りで、それは世界的な現象です。私が提示している展開は、この危機がフランスの国境を大きく超えていることを示しています。この問題は、左翼の権力もしくは第五共和政の君主政が逸脱しているというだけではなく、ネオリベラリズムに、そしてその民主主義の概念に結びついた最も根本的な何かなのです。進歩主義者と呼ばれるサヨクは、世界のあらゆるところでこのネオリベラリズムを大々的に借用しました。そしてサヨクネオリベラルな命令に適応することを拒絶した時、未来の展望、改革の展望、そして進歩の展望、また同様に「革命」という用語の独占的な展望に対するそのイニシアティヴを失うことで、しっかり頻回に防御陣地に撤退したのです。これが私が伝える最後通告なってもらいたいのではないのですが、それは私たちが世界中のあちこちで同時に、医療と教育と経済に関連した問題をめぐる新たな国民の高揚とともに、公開討論がその様相を一新するのを目の当たりにしているからです。これは私の見解ですが、こういった刷新はネオリベラリズムが危難の局面に入っているサインです。ネオリベラルな企てに異論をとなえる環境問題の危機が、2000年代の後半にエリートも含めて世界的に認識されることで、それは危難の局面に入ったのです。ネオリベラルの体系には亀裂が入り、生活に、進歩に、そして生活と生命をめぐる民主主義的な決断に異なった関与を企てることを可能としました。私たちの生きているこの期間が極端に憂慮すべきものなのであれば、これはその期間を、全面的にネオリベラリズムが覇権を取った何十年もの長い期間よりもずっとわくわくするものともします。それは、おそらく私たちがそこから脱しつつある期間なのです。

(Le Magazine Littéraire誌 no. 15)

 

『Il faut s’adapter (適応しなければならない) 』新しい政治的要請について 

バーバラ・スティーグラー、ガリマール出版 336頁22ユーロ