彼女はこんなふう、マリオン・マレシャル

彼女はこんなふう、マリオン・マレシャル

 

 

過去に神童だった人たちの受難が十分に語られることはないでしょう。黄金の歌声を持つスペインの小さな歌手、ホセリートは、バラ水の映画で観客を涙させた時13歳でした。彼は1990年代の初めに武器と麻薬の密売でアンゴラで逮捕されました。ブリュターニュ人でピアニスト、ミヌ・ドルエは、1955年にジュリアール出版から最初の詩集を出版した時8歳でした。当時のフランスは彼女の才能の純粋さを奪いあいました。成功は続きません。彼女は看護師になり、カムバックを試みています。Wikipédiaによれば、「彼女はメディアから離れ、ゲルシェ・アン・ブルターニュで暮らしている」。もっと私たちのこの時代に近いところでは、ジョルディ・ルモワーヌが、両親が彼女をしがないロッカーのメイクで演じる『デュール、赤ちゃんはつらいよ!」の舞台に上げた時にはわずかに4歳でした。大人になり、彼女の父が彼女を破産させ、実況番組の放映で生きながらえていることがわかります。


では、マリオン・マレシャルの場合には... このジャン-マリー=ル・ペンの孫娘でマリーヌの姪は、2010年に地方選に立候補しその最初の任期を得たのが20歳、2012年の国会議員選挙でブレークしたのが22歳、史上最年少記録のフランスの国会議員で、その記録はそれまで1789年3月28日のマチウ・ド・モンゴメリ=ラヴァルが保持しているのですが、リヨンに民間で真に右翼のエリート育成のための謎めいた社会、経済、政治科学の施設を設立すべく、その公務を離れたのは28歳でした。


「自分は政治的使命から離れることはできないと考えるほどには、私にはそれがよく分かっていなかったようです」と彼女はすでに2015年に雑誌シャールで打ち明けています。 それが否定や拒絶を受け継ぐことならば、明晰な発言をする彼女にとって望ましくないですよね。それでは我が敬愛するマリオン、ポポルさん(?: la popol)、そんなことをする人がいますかね。その引退と発言を控えた生活以来、彼女は自分自身を知ろうとしているようです。あちらこちらで、彼女には自分に欠けているものが分かっていて、ディディエ・デシャンが言ったように自分のゲームの軍資金を固めようとしていると書かれているのを目にします。

 

「私には何の計画もありません」

イタリアの政党「同盟」のインテリと婚約し、実践的なカトリック信者で経済においてはリベラル、組織解体と解雇の戦略には彼女の叔母の方がより好意的ながら、右翼連合に参加する若い母親、彼女がワシントンのアメリカ保守派会議で、オクスフォードではブレクシトを支持し、ヤルタで、クリミヤで、政治を語るのを見ました。対外的には彼女のアピールは大成功しています。


彼女はフランス経団連に招かれてその夏季講座に参加しましたが、フランス経団連が主導するということがのちに大きな抗議を引き起こしこの経営者組合は断念しました。彼女は共和党員の15人あまりの議員と夕食会をもち、彼らは大喜びでした。週刊誌Valeursにとって彼女はちょっとした現代のジャンヌダルクなのですが、しかし同誌の彼女の定期対談の際になんと彼女は相も変わらずこう繰り返しています、「私にはプランはありません。」それはもううんざりなのです。


4月には、この退職者に13ページが割かれ、彼女はそこでエマニュエル・マクロンを「2000年代のエナルク支配が生み出した時代遅れなもの」として、彼女の年齢で彼を痛烈に批判し見下していました。彼女は彼の未来のライバルとも目されています。 謙虚なのか臆病な生き方なのか、彼女は「政界を離れてしまった」波乱を認めており、そして「復活戦に関してはまだ少し若い」と自ら考えています。しかし、彼女が諦めていると書かれたものは見当たりません。

(M-lemagazine誌  2019年7月 5日)