マリーヌ・ル=ペンはド=ゴールの遺産を継承するという

マリーヌ・ル=ペンはド=ゴールの遺産を継承するという


自分の政党の歴史にも関わらず、この国民連合の総裁は、6月18日の対独抗戦を訴えた人物を賛美する長い文章を書いた。


マリーヌ・ル=ペンはドゴール主義者たちのなかの筆頭なのか。Revue politique et parlementaire誌に近々掲載される討論で、この極右政党の総裁は極めて強調した賛辞をドゴール将軍に示した。この討論はフィガロ紙が明らかにしたもので、本紙もこれを検討しえた。一人の「偉人」の栄光を絶賛する9ページにわたって、マリーヌ・ル=ペンは、6月18日の対独抗戦の人物の遺産は我々が継承するのだとしている。彼女にとっては、「政治のゲーム盤上では、今日ではただ国民連合(RN)のみがこの血脈を守っているのである」。


この政党がかつての秘密軍事組織OASや「フランス領アルジェリア」を懐かしがる多くの人々によって設立されたことを考えれば、まさに敵意に満ちた反ドゴール主義の中に生まれたこの政党のトップとしては、少なくとも意外な弁論である。2018年に登場した彼らの記憶の第1巻のなかでは、そもそもジャン=マリ・ルペンは、「フランスにとっていまだに苦痛の恐るべき根源である」この人物に対しては今でも口を極めて辛辣である。


彼の2番目の娘である彼女の今回の政治的意図は、人目を引かざるをえない。この極右政党の起源とは真逆となるこうした賛辞によって、彼女は「脱悪役化」の企てを進めることができる。こうしてこの自由なフランスの首長の遺産を手に入れることで、国民連合の総裁は、もっと邪魔な左翼の歴史的連立政策の遺産や、ショアを「歴史の些末な一部」になぞらえたりペタン元帥の名誉を回復したりした自分の父親の声明を、あらためて穴埋めしようとしている。


しかし、この文章でドゴール将軍の人物像を自前のプログラムに組み込むことで、マリ ad ヌ・ル=ペンは歴史を覆している。かくして特に意味論(semantique)が選択される。「ド=ゴールはどこにも由来しない。ド=ゴールはフランスが生んだ」という根を張り巡らせるような(de l’enracinement)レトリックから、「人々が死んで消滅していくこと」で歴史から敢えて抜け出そうとしている「千年も続く」フランスというレトリックまで、その過程で愛国主義と国家主権主義を擁護しながら。第五共和制の初代大統領になるほどに、フランスの右翼を守護する人物であり続けながら、それでも自分は党派を超えていると考えている男、「右翼も左翼も」体現しないこの人物は、まさに彼女自身が構築しようとしている政治方針である。


マリーヌ・ル=ペンが選んだ歴史の実例を見れば全てはあきらかである。もしも彼女が、2回の世界大戦でのシャルル・ドゴールの軍事的な功績に長々とこだわるのであれば、彼女はアルジェリア戦争に関しては少なくとも今まではっきり触れようとしていない。彼女はドゴールを引用したついでに、こっそりとアルジェリアの軍事クーデターに触れ、「前衛の決断の実例」の中から慎重に「植民地解放」を持ち出す。その反面で、この戦争の終結を公式に監視した1962年のエヴィアン協定に関しては触れない。


骨折線

それもそのはずである。彼女の何名かの幹部、なかでもルイ・アリオが数年前にも秘密軍事組織OASの人物を公然と称賛しているのに、国民前線の設立者で元ヴィシー支持の親独義勇兵フランソワ・ブリノーが「エヴィアン協定の陰気なコキュ」と呼ぶアルジェリア独立のシャルル・ドゴールの後継をどうやって自認するのか。アルジェリア引き揚げ者やアルキ(harki)たちの肩に手を載せたまま、ドゴール主義の遺産をどうやってせしめるのか。彼女が数年前から何度もドゴールからの引用し、それが今回の討論で度を越すなら、敢えてそこから一歩を踏み出すには、マリーヌ・ル=ペンは自らの政党内にあるアルジェリアの骨折線を知り過ぎている。彼女が地方選の第2回投票を目前にしてドゴール主義者の立場を取るなら、この極右政党がアルジェリア引き揚げ者やアルキたちの共同体の内部に広く定着してきた地域で票を失いかねない。


2014年に彼女は「友人であるアルジェリア引き揚げ者やアルキ」たちに1通の書状を送ることで、かつての右腕だったフィリッポと彼のいささかゴール主義者すぎると判断される典拠から、同様に袂を分かたざるを得なかった。そこでは彼女は、「私は国民前線は、全く賛同しているのかという点ではドゴール主義政党であろうとは思わない」と断言している。同じ年に彼女はFrance3のスタジオでも、「ドゴール将軍と私の間にはアルジェリア戦争があります」と言っている。彼女の南部の代理人たちは、すぐにこの極右政党の歴史的な趨勢をわかりやすく示している。ボーケール(ガール県)の市長、ジュリアン・サンチェは、アルジェリア停戦の日付である「1962年3月19日通り」を、自分が選んだ日付であるアルジェリア在住フランス人とアルキがオランで虐殺された1962年7月5日に改名した。フレジュス(ヴァール県)では、2015年にダビド・ラシュランが「アルジェリアでフランスの栄光のために倒れたもの全てを賛美する」石碑の除幕式を行った。


「国民前線が記そうとする歴史は、何よりもまず過去を賛美し、永続しそうな悔恨は拒絶しようとします。そして、もしもこの点において運営方針が変わってしまうならば、ジャン=マリ・ルペンの国民前線の系統が重要になります」と歴史家であるヴァレリー・イグヌは分析する。今回の討論において、この極右の専門家は「マリーヌ・ル=ペンは、2回の選挙戦の間でまたもや揺れ動いているのです」という。

(Le Monde紙 2020年6月4日)