ジゼル・アリミ

ジゼル・アリミ

弁護士、女性の権利の擁護者

 

7月28日、自らの誕生日の翌朝に死去したジゼル・アリミを語るには、最初から避けては通れない2つの言葉がある。それは闘士と反抗者である。ゼイザ=ジゼル・エリズ=タイエブが1927年7月27日にチュニスのそばのグレットで生まれた時、誰も祝宴をしなかった。

 

彼女が『La Cause des femmes 』(1974年Grasset社)で語ったように、彼女の父親エドゥワールはあまりに落胆し、彼女が誕生したと友人たちに打ち明けるまで何週間もかかった。この父は女の子たちを愛することがなかったが、しかし自分の娘は熱烈に愛した。その一方で、『Fritna』(2000 年Plon 社)と同様に、感動的な自伝物語『Le Lait de l’oranger』(1988年Gallimard出版)でもたっぷり読むことがができるように、ジゼルとその母親との関係は常に難しかった。

 

タイエブ夫人は、疑うことなく一人娘が従順であることを願った。若きジゼルは全てに対して反抗的で、10歳で自分の読書の権利を認めさせるハンガーストライキをするほどだった。彼女はユダヤ系の自分の家族の宗教的感情を受け付けず、登校する前のメズーザーへのキスを拒んだ。


彼女は16歳の時に縁談を拒み、フランスで法律を学んでチュニスに戻り、1949年に弁護士会に登録した。彼女が常にそうであった反抗者は、闘士となった。まず、彼女は一貫してフランス人なのだが、彼女が決して放棄しなかった国籍の祖国チュニジアの独立のために。彼女はずっとチュニジアを愛しており、定期的にそこには戻り、パリでは友人たちにチュニジア料理を作ることが好きだった。


彼女は上級事務官のポール・アリミと結婚し、1956年にフランスで暮らし始め、彼女は姓を換えて2人の息子を産んだ。彼女は離婚したが、周知されたこの姓名はそのままにしてクロード・フォーと結婚した。彼はJ. P.サルトルの秘書だった。彼女は彼と3人目の息子をもうけた。女児は生まれなかった。多分このために、彼女は孫娘と、彼女が出版した最後の書籍『Histoire d’une passion』(2011年Plon社)で分析している激しい関係を持つことになる。


拷問との長い闘い

アルジェリア戦争が始まった時には、サルトルや1960年9月に121人宣言に署名した人々の側について闘うことは自明だった。1960年に爆弾を設置したとして起訴された22歳のアルジェリアジャミラ・ブパシャがフランス兵によって逮捕され、拷問され強姦されたことを知り、彼女はこの人物の弁護を決断した。


この時、ジゼル・アリミがシモーヌ・ド=ボーヴォワールを巻き込んだ長い闘いが始まった。ボーヴォワールル・モンド紙で、ジャン=ポール・サルトルルイ・アラゴン、ジュヌヴィエーヴ・ド=ゴール、ジェルメン・ティリオンといった人々との紙上討論会を行った。ジャミラは最終的に1961年にフランス、カエンにて判決を受けた。ジゼル・アリミの素晴らしい口頭弁論にも関わらず、彼女には死刑が宣告されたが、アルジェリア戦争終結させたエヴィアン協定によって、1962年に赦免され釈放されることになる。


その同じ年、シモーヌ・ド=ボーヴォワールとジゼル・アリミらは、この事件全体に関する証言の書籍『ジャミラ・ブパシャ』をガリマール出版から出版した。その表紙にはパブロ・ピカソによってジャミラの肖像が描かれた。ジャミラ・ブパシャとジゼル・アリミとの物語は、カロリヌ・ユペールの監督によってテレビドラマになった。『Pour Djamila』は2012年5月20日にFrance 3で初めて放映された。ジャミラ・ブパシャ役はアフジャ・エルジ、ジゼル・アリミ役はマリナ・アンズが演じた。


それ以来、ジゼル・アリミは難しい案件の弁護士と考えられている。彼女の答弁を聞いた人は、もっとマイナーな件でも、彼女の弁舌には人々を惹きつける力があることを知っている。そして彼女の冷静な安定感。ある日、非常に横柄なロベール・バダンタという人物と争って彼女が始めた口頭弁論は評判となった。「私はパダンタ教授に竈門に送り返されたりはしません。」


ジゼル・アリミは1つの政党の旗手になることなく、ずっと以前から政治に関与してきた。それが、1965年にエヴェリン・スルロ、コレット・オードリーほか数名と、フランソワ・ミッテランの共和国大統領への立候補を支持する女性の民主主義運動を設立した理由である。


フェミニスト、今だにこの言葉が彼女にとって意味を有しているわけではないが、グレットでの自らの幼少時代から彼女はフェミニストであった。同様に論理的には、Le Nouvel Observateur誌が1971年に公開した343人宣言の署名者の中に彼女を認める。この女性たちは、妊娠中絶をし、それゆえに法犯したと宣言し、女性はもう闇中絶をすることで自らの生命を危険に晒してはならないと論じた。同じ年にジゼル・アリミは、シモーヌ・ド=ボーヴォワールとともに「女性のために選択する」運動を設立し、あらゆるフェミニズム運動に関与して、多くの虐待を受けた女性の保護を組織することになる。


1972年には、16歳の少女マリー・クレールとその妊娠中絶を援助した母親が法廷に訴追されている。彼女たちはジゼル・アリミに弁護を依頼した。この2人の女性のためだけでなく、妊娠中絶の自由化のために弁護を請け負う決断をしたジゼル・アリミは、ボビニーで行われた訴訟に高名な証人たちを要請した。そこには、医学部教授で熱心なキリスト教徒、6人の子の父親であるポール・ミリエがいた。マリー=クレールは釈放され、母親は有罪判決を受けたが刑を免除された。妊娠中絶に関する法への大きな進歩だった。これはシモーヌ・ヴェイユのおかげで、ヴァレリー・ジスカール=デスタンの当選をうけた1975年1月に交付されることになる。この件は、Elle aussiフランソワ・ルチアーニが監督し『ボビニー訴訟』というテレビドラマになる。これは2006年4月にFrance 2を含む複数のテレビ局で放映された。アヌーク・グリンベールがジゼル・アリミを演じ、サンドラン・ボネールがマリークレールの母親役だった。

 

強姦を犯罪に

この時フェミニストたちにとって、強姦は犯罪とされるべきだという新たな闘いが始まった。またもやそこにはジゼル・アリミがいる。1978年5月にエクス・アン・プロヴァンスで、彼女は、3人の男性を告訴した2人のベルギー人の若い女性の弁護をブッシュ・ドゥ・ローヌの重罪院で代理した。1974年8月21日から22日にかけた夜に、彼女たちはある入江でキャンプをしていて強姦された。この3人の男性は無罪を主張した。ジゼル・アリミは法廷外で、恫喝され、罵倒され、脅迫された。男性たちは有罪となった。そして、またもやこの訴訟が1980年法への道を開き、これは強姦を犯罪であると認めている。この件は2014年にセドリック・コドンが監督したドキュメンタリー(Le Procès du viol)および2017年に放映されたアラン・タスマのテレビドラマ『Le Viol』のテーマとなっている。

 

ジゼル・アリミが1965年から支持してきた候補者のフランソワ・ミッテランが1981年に共和国大統領となった。この時彼女はこの機会に参加したいと考え、イゼール県第4選挙区の社会党会派の代議士となり、ついで1985年から86年までフランスのユネスコ大使となった。これがひととおり終わると、彼女は自分の仕事である弁護士に喜んで戻り、もう1つの彼女の愛する行為、書くことにもっと時間を割くこととした。

 

1988年から2011年にかけて、彼女は15冊ほどの書籍を刊行しており、84歳の時の『Histore d’une passion』がその最新のものである。ル・モンド紙の対談において、彼女が老いに関する感情を語る機会があり、「唯一困るのは、健康状態が良ければですが、知的な衰えが困ります。といっても、私はまだ何でもできていると思っていますが。人生経験の方では、さらに豊かです。もちろん限界というものはあります。かつては重罪訴訟、ボビニー訴訟のような場合は、ある案件で徹夜で仕事をし、シャワーを浴び、コーヒーを1杯飲んで弁護に行けました。今では夜は1時が限界。しかしそれも必要最小限。人生を時期で区切ってしまうこと、「もう終わり、私は老いに入った」と考えることがなければ、老いることはさほど不愉快ではありません。」敬服していたマルグリット・ユルスナールから引用して、彼女は自分が生きてきたように「目を見開いて」死にたいとしていた。

(Le Monde紙2020年7月30日)