誰がシルヴィア・プラスの最後の原稿を盗んだのか
1962年ごろ、この小説家・詩人は、夫に裏切らてれ一本の不倫小説に取り組んでいた。彼女が自殺した後、テッド・ヒューズがこのタイプ原稿を持っていったのか。半世紀以上が経過した今も、謎も期待も残り続けている。
この事件は、捜査が一度も中断されたことのない迷宮入り事件といってもよい。この事件には、いくつかの断片があるのだが、それは揃っていない。証言にも食い違っているものがある。証拠もいくつか失われている。つまり、仮説ばかりで確実さに乏しい本件では、いまだに出てこないという事実だけが残り続けている。
アメリカ人の著作家シルヴィア・プラス(1932-1963)は、亡くなる前の数ヶ月間で第二作目となる『Double Exposure」』という仮題の小説に専念しており、これがミステリアスに消えたのだ。そこでは何が語られていたのか。この原稿は痕跡も残さずどうやって消えたのか。誰かがこの原稿を破壊したのか、紛失したのか、盗んだのか。もしくは、古い保存箱のなかで他の書類に紛れ込んでいるのか。
1963年2月11日、この著作家が30歳で自殺した時点では、彼女は1冊の詩集『The Colossus and Other Poems』と、その少し後にイギリスで出版された自伝風の小説 『The Bell Jar』 を刊行しただけだった。批評は彼女を好意的に受け入れ、長年の努力もあってプラスは、ずっと目指してきた彼女のいう「偉大な詩人、偉大な小説家」になるという夢を実現した。
現在にいたるまで、あらゆるものが彼女に手段を与えてくれるものだったようだ。『The Journals of Sylvia Plath』には、文学への欲求から本を読みまくり、書き続け、文芸コンクールで認められる一人の若い女性が描かれている。1950年にアメリカの名門私立女子大学Smith Collegeに行く奨学金が支給され、彼女はそこを最優等で卒業する。またイギリスのケンブリッジへの奨学金も出た。
しかしこうした成功の背後には、根源的な脆さが隠れていた。シルヴィア・プラスは重度の躁鬱系の問題で苦しんでいた。「私はいつも過剰なほどの傷つきやすさに苦しんでいたと思う」、と彼女は、鬱の大発作から3年後となる1956年に書いている。彼女は『The Bell Jar』の執筆中に鬱となり、最初の自殺企図を引き起こしている。彼女にとって、書くという行為は避難することであり必然であった。彼女は、「私はしっかりしてる、でも書いていなければダメ」と『The Journals of Sylvia Plath』に書き留めている。彼女は熱にでも浮かされたように仕事をし、詩も1日に一編ずつ作るようになっていた。
彼女の作品が死後も評価され続けたのは、彼女がこのように多産であったことで説明される。それは、この20世紀の偉大な詩人の声が重要だと判明したのが死後になったからである。得てして彼女の代表作とされる詩集『Ariel』、さらに彼女の日記や、彼女が描いた水墨画などが見つけ出されたのだが、書きかけだった『Double Exposure』のタイプ原稿は見つかっていない。この作品が、あらゆるファンの妄想を刺激し続けている。
プラスは、執筆活動に取り掛かるためにイギリスで暮らす。彼女はイギリスの詩人Ted Hughes (1930-1998)と結婚するが、この人物はイギリスの桂冠詩人(王家の公認詩人)となり、彼女とこの人物には2人の子供がいた。しかし、古典的なジレンマではあるが、「良妻賢母」でなければらないし、自分の作品も作り上げなければならないしで、この著作家は引き裂かれる。ヒューズのもとで書くことは単純ではない。そして実母の助言はほとんど役に立たない。というのも、母親のAurelia Plathは、精神病院に入院中の体験や電気ショック療法なんかよりも、「楽しいお話」を書くように娘に勧めた。「ビカッと光るたびに、すごい衝撃が、あちこちで骨が砕け、切られた植物から樹液が出るようように感じるまで、私を打ちのめす」と、『The Bell Jar』には書かれている。
シルヴィア・プラスが、1962年の夏の終わりに『Double Exposure』を書き始めた頃の状況を理解することが大切だ。この時期にはヒューズは不倫をしており、プラスもそれを知っていた。この二人は破綻しており、プラスは離れていく。彼女は独り身となって子供たちと、書くことで「生の混乱を正当化」するためだけに暮らす。全幅の信頼を置いていた人物に裏切られてしまった、癒しようのない傷を背負って。
当初は『Double Take』という題名だった『Double Exposure』は、夫が不倫関係にあることを知った女性を舞台に上げている。プラスは文章に絶望のエネルギーを吹き込むが、喜劇の部分もある。兄弟に宛てた手紙のなかで、自分の書いているものが自分を「大いに笑わせる」と語っている。そして自分ですごく楽しめるのなら、「それ」は本当に「hellishly funny」に違いないということだ。
彼女はこの第2作目の小説に恃んでいた。文学の面でも、しかし経済的な視点からも。アメリカ人女流作家Gail Crowtherは『These Ghostly Archive』で、プラスはロンドンに自分自身の家を買うために、映画化の権利を売れるような作品が欲しかったのだと説明している。
しかし、運命がつけた決着は別のものだった。1963年の始めに、この詩人は自分の悪魔たちに取り憑かれる。この年、ロンドンの冬は凍てついていた。シルヴィアは一文無しで、「袋の底で身動きできず、無酸素状態」のように感じていた。2月のある夜、子供たちが隣室で眠ったので、彼女はガス栓を開きオーブンに頭を入れた。
それゆえ『Double Exposure』のタイプ原稿が、プラスが残した書類になかにあることは明白である。しかしどのような進捗状況なのだろう。謎である。『Johnny Panic and The Bible of Dreams』は、プラスの日記と短編からの選集だが、その前書きでテッド•ヒューズは、「その発見された130ページ」について語っている。しかしGail Crowtherは、彼は矛盾しており、彼が言及したのは現時点では「60から70ページ」だけであると強調する。彼の妹であるOlwyn Hughesは、ヒューズの、さらにプラスの死後にはプラスの文業の代理権者だったが、彼女の場合はある手紙のなかで、「書き上がっている二つの章」について記している。一方で、ヒューズによれば、Aurelia Plathが「出来上がっている長編小説」を見ていると断言しているのだが。
誰を信じるのだろう。いずれにせよこのタイプ原稿が消えたのは1970年頃なのだ。数年間はテッド・ヒューズが妻の熾烈な文学的遺産を管理していたのだが、彼はAurelia Plathが娘のところに「やってきた時にそれを横取りしてしまった」のだろうと確信している。しかし、同時にプラスの日記が二本なくなっていることも分かれば、この件は複雑になる。そして、1995年春の『The Paris Review誌』のインタビューで、ヒューズはそのうち一本の日記を燃やしたことも認めているのだ。「私が破壊したのは、シルビアの最後のおそらく2-3カ月分の日記だった。それはガチで惨めだった。子供たちには見せられない、それだけはダメ。とりわけ彼女の最後の数日間なんて。」テッド・ヒューズは その勢いで『Double Exposure』も燃やしたりしたのだろうか。たぶん、そこではこの二人に関していささか過剰に語られていて、彼に好ましいイメージを与えることにはならない。
掘り下げなければならないのは彼の愛人、その所持者だったAssia Wevillの方だと考えている研究者たちもいる。プラスの死後、彼女はその残された原稿に触れることが可能だったことが知られている。ウィーヴィルは行方不明になり、彼女も1969年に小さな娘と自殺したのだが、彼女の事件も有耶無耶になった。そして、このタイプ原稿が、あるコレクターの整理されていない文書庫とかその子孫の元にあるとも考えられる。
つまり、未知のことだらけ、直接の目撃者も退場し、2次情報も信憑性に乏しく、苦しい推論ばかりになっている。ある噂が広がったが、それでは『Double Exposure』の秘蔵コピー版がスミス・カレッジで見つかったとされていた。たしかにそこにはシルヴィア・プラスの文書の一部がある。しかし、研究者たちが探したが、無駄に終わった。
足りないピース、完成しないパズル。しかしながらGail Crowtherがいっているように、いつの日かこの貴重なページが見つかることもないわけではないだろう、とする人たちもいる。例えば思い当たるのは、ブエノスアイレスの旧国立図書館の未開梱の文書ケースのなかで埃をかぶって待っていて、1992年、起草からきっちり70年後に、単に移転のおかげで発見されたボルヘスの未知のあの詩である。失われた作品とは、時には全くただ単に眠っているだけの作品なのである。
(Le Monde紙 2026年8月3日)