Le mondeの意見ー
CHEF-D’ŒUVRE
一日の仕事を終えて東京の自宅に戻った若きピアノ教師 瑞希は、混乱した心で一人白玉を作り始めた。低い息遣いの音とともに、そこで場面が切り返され、窓辺に一人の男が姿をあらわす。それは彼の夫 優介であり、彼は3年前に海で死んでしまっている。彼は亡霊であるが、普通に服を着て、しゃべり、歩き、座り、食べ、ため息をつき、誰もがするように妻を抱擁する。
このシーンそのものは、さほど唐突でもなく、とりわけて亡霊の見えない存在を、もっとも目立たぬ空間の片隅に巧妙に描きこむことも心がけていない。彼の登場は、それはまったく恐ろしくなく、表情も仕草も、私たちのまだ見知らぬカップルのこれまでの振る舞いのまま、自然にそれは現実へ連なっていく。抑えたシーンを描いた洗練された作品であり、その移ろいやすいはかなさが、まるで確かなものであるかのように、ここでは素晴らしいレベルにまで純化されている。
黒沢 清は、日本のホラー作品における主要な人物の一人であり、1955年生まれで巨匠黒澤明とは血縁関係にはなく、幻想的な作品とも言える素晴らしい家族の物語「トウキョウソナタ(2008年)」を作っており、彼の映画は現在も伝統的なホラーに由来している。「贖罪」(フランスでは2012年に2本の長編の形で上映された連続ドラマ)は、彼がたびたび参加していたテレビドラマ制作では最後の作品であり、この映画監督はエピソードごとの「連続ドラマ」という形態を守ったものと思われる。それは登場人物たちの常軌を逸した精神や、そして何よりもそれが日常生活の不穏な流れの中に潜む様式にはぴったりであった。
疼く痛み
それは「岸辺の旅」でも明らかに同様で、作品は早々に東京を離れ移動する展開となる。優介は、自分の過去を追って、これまでに滞在してきた日本の小さな町やその外れの田舎を巡る旅に妻を連れ出す。これは過去の秘密を扱う際にはお約束の小説的舞台装置である。それぞれの場所で、そこに暮らす人々(そのうちの何人かは亡霊)との出会いが描かれ、そこで新たなトラブルが起こり、それが勇介の失踪に思いがけず新たな光をあてるが、しかしながらその状況がすっかり解明されることはない。
この記憶を巡るしみじみとした遍歴とは、 それはそのたびごとに様々な形を取る「喪」であり、それは新たな登場人物たち(一人の老人、食堂の夫婦、歯科大学病院の若い女性職員など)、彼らのさまざまな後悔、抑えられた感情、もう答えてもらえない疑問などによって明らかとなる。いずれもそれらは、存在の突然の消滅(親しい者の死)を招いたのみならず、とりわけ存在をじわじわとすり減らしながら砕ける波を大きくしてしまった日々のためらいである。さらに、おそらくらくもっとも心を打つのは、これまで抑えられてきた痛みの糸をたどるために、彼はいつも、ちょっとした口論、餃子を作る、それを一緒に食べるなどの、些細な日常、ちょっとした仕草、いつも通りの食事風景を自らに課している。したがってこの作品は、人間性の神秘の核心の高みに至らんとして採られたこの平凡な営みの中に、ややもすれば消え入ってしまうリスクをもつ。
黒沢の描く亡霊たちは、もはや恐怖やおぞましさなどという闇の領域にはなく、むしろ光や、彼の作品における明らかに何か強迫観念ともいえる陽の当たる領域にある。登場人物が「哲学ゾンビ」であることが注目されたとても美しい「リアル(2013年)」と同様に、亡霊たちはもはや彼岸から現れるものではなく、むしろ広い意味での霊性、いわば活動する想念、様々な感情が個体化されたもの、外部の世界に投射された物理的な生、の継続なのである。ここでは亡霊たちは生きている人物に依存しており、むしろ生者とそれ以上見分けがつかなくなってしまう。
すっと動くもの
このような、生とほとんどかわらない日常化した亡霊という公理は、夢と現実(ここから瑞希は目覚める)、主観と客観、存在と欠如、実在と徐々に消え行くもの、などの間をたえず揺れ動きながら、確かなものなどない世界へ物語を沈みこませる。しかしながら、もしも全体としての分かりやすさを保つならば、黒沢はややこしいことをする必要はない(?)。 登場人物たちの感情の流れをしっかりと追いながら、彼は死の彼岸にいる共存者を、時間の支配する世界という、たしかに相対主義的ではありながらしかしきっちりと一貫した概念へと送り返す。もちろんこれは、日本の幻想的なものの根源と考えられる神道の概念であるが、しかしより科学的にはアインシュタインの概念でもあり、優介はこれを引き継いで、作品の後半で小さな村の人々に宇宙の進化について講義をしている。
脆く崩れやすい次元にあるこの漂う世界、それはおそらく記憶の世界に他ならないのだが、そこで黒沢のカメラは、後ろめたさを引きずった登場人物たちの人間関係を少しずつ微妙に揺り動かしながら、そして彼岸の世界を、記憶として想起されるものと存在の本質とに分ける見えない「区切り」を絶えず越えながら、そこで微妙にすっと動くものを描き出す。乱暴にジャンプカットされたシーンによって、時にはいきなり現実に引き戻され、この区切りがまるで時間の生地にできた裂け目のように透明になることがある。そしてふたたび超自然のできことが、喉元につかみかかって来るようなものではなく、むしろ吐息がたまたま映像をかすめるように、そして光がそっと放射するように起こる。この光は、メインカメラの芦澤明子の美しい映像が繊維質で硬直した薄明かりの中に刻み込む光で、それはほとんど夢幻状態となっている。
夫婦のぎりぎりの理想を描いた素晴らしい作品「岸辺の旅」は、それが恋人たちの抱擁、思いやりの仕草、取っ組み合いのけんかなどの、登場人物たちの身体的な接点を明らかしたために、これほどまでに感動的なのではない。このふれあいによってさらに、言葉の上に病的に積み重ねられたものが軽くなり、そして人間の肉体と霊的な作用を混合させたような新たな受肉した存在が通う、秘められた路を見つけるのである。一つのイメージの中にさまざまな存在のあらわれ方を描きこむ、たいへん見事な手法である。
(Le Monde紙 2015年9月29日 : Mathieu Macheret)