「同意形成の人物が首相府に」
この元EC委員は、分断された国民議会で道を見出さなければならない
2021年秋、バラン県でのこと。2022年の大統領選予備選の右翼の候補者だったミシェル・バルニエは、ストラスブールの隣のサヴェルヌで、ある居酒屋を訪れた。きっちりしたスーツに銀髪で、彼は2人のサラリーマンとすれ違う。「あなたの会社に行ったことがあるよ、好意的でいい感じだった」、彼は会話に持ち込もうと、張り切って2人を呼び止める。彼らはどう見ても彼が誰なのか知らず、唖然とした目で見る。このECの前役員は、ヨーロッパの機密の内部で15年間過ごしていたので、これは自己紹介しなければいけないと思う。「ミシェル・バルニエ、共和国大統領選の候補者です!」
フランス国内ではあまり知られていない、このかつてのBrexitの交渉者は、政治的危機のさなかに73歳で首相となり、6月30日と7月7日の国民議会選挙をへて3ブロックに分裂してしてしまった国民議会に道筋をつけるという難題を与えられた。たとえ彼の側近の1人が言うように、「ミシェルがフランスの公開討論制度の劣化にはあたらない、ということが一つのショックな出来事になる」としても、権力の領域での長年の経験は彼の助けとなる。
ミシェル・バルニエは、 1973年に22歳で最年少の県会議員となり、1978年にサヴォワで最年少の国民議会議員、最年少でサヴォワの県会議長、国務大臣に4回(1993年環境相、1995年にEU担当相、2004年に外務相、2007年に農業相)、2回のEC役員をへてBrexit交渉役員。そしてもちろん、30年たった今でも彼がいまだに持ち出したがる最初の勲功は、1992年のサヴォワでのアルバートヴィル・オリンピックの開催である。
公的債務超過措置のせいで、フランスは6月以来非難の標的となっており、ミシェル・バルニエはEU本部を安心させなければならなくなるが、彼はEUの舞台で尊重されており、2020年12月に力づくで獲得した Brexit協定に至るまでの15年間にわたり、彼はそこを縦横に走り回っていた。この元EC役員は、珍しいことだが27カ国体制のEUから歓迎されており、彼が特任交渉担当者であったときに、それは彼の交渉技術、粘り強さ、強靭さを称賛している。ブリュッセルの厳格なEU本部内では、扇動的なハンガリーの首相ヴィクトール・オルバンも彼を評価している。マクロン派のClément Beauneは、2021年にEU担当相だった頃、「あれはあらゆる点で良い交渉者ですよ、私たちとは親密な関係にあります」と言っている。
共和党(LR)内部では、中傷好きたちが長い間彼を「裏切ったマクロン派」としていた。経済ととりわけEUに関しては根本的にエマニュエル・マクロンに近いミシェル・バルニエは、しばしばこの形式を批判していた。「すべての人々を稼働させなければ、フランスは統治できませんよ」と、彼は2022年の大統領選の前哨選挙運動の際に「縦割りで、尊大で、独りよがりな」大統領職を告発して繰り返し語っている。彼とこの大統領との関係にはムラがあった。2019年にECのトップになろうと考えたミシェル・バルニエは、エマニュエル・マクロンが自分を支持しなかったと確信した。彼はそこで傷つき、苦い思いをした。
2020年の初めに、大統領府は彼に接近し、首相エドゥアール・フィリップの後任を持ちかけた。しかし、エマニュエル・マクロンからある条件、つまり共和党の離党を提示されており、彼が拒否したのはこれである。その後、彼は大統領の有力な書記長Alexis Kohlerから定期的なコンタクトを受けており、この人物に対して、彼は非常に多くのテーマに関して、自らの信条と誰とともに進めていくのかをしばしば弁ずるようになった。
「フランス風のジョー・バイデン」
2020年12月にブリュッセルでBrexit協定を締結したあと、ミシェル・バルニエは、自分の国の「役に立ちたい」とフランスに戻る。彼が共和党メンバーによって選ばれるならば、その時にこの「フランス風ジョー・バイデン」みたいな様相を呈する人物は、エマニュエル・マクロンに替わる安心しうる選択肢となりうる。この立候補の際にはBrexit協定が重荷となった。側近たちによれば、欧州理事会において4年間接触してきた大統領やUE政府との交流のために、彼はこの面倒ごとそのものから手を引いたのだろう。
彼は1951年1月9日にラ・トロンシュ町(イゼール県)で生まれ、母親が社会主義キリスト教、父親が反教権主義共和党支持者の息子だった。彼は14歳の時にドゴール派の政党l’Union des démocrates pour la République の門を叩き、常に前途有望と思われていた。「若かった頃は、彼はケネディに心酔していた」とサヴォワの前共和党議員ミシェル・ブヴァールは語っている。バルニエは大統領予備選で勝利する価値があるかのように確信しており、そこで彼は、普通選挙に13回挑み、13回勝利していると繰り返している。2015年のオーベルニュ・ローヌ・アルプ圏議会選挙で、共和党の前身のl’Union pour un mouvement populaireからの公認を争ったライバルのLaurent Wauquiezが彼に圧勝していることは曖昧にしている。結局、この元「ミスターBrexit」は、2021年1月24日の大統領予備選第1回投票で3位となり、大統領選ではValérie Pécresserの後塵を拝した。
選挙戦の間、彼は自分の欧州統合の確信に対しては直角の、予想外の態度を示す。移民問題については、「これ以上EU司法裁判所やEU人権裁判所の判決に従わずにすむよう、法的主権を回復する」ことを呼びかけている。この手の発言は、当選者たちよりもさらに右翼だとみなされている共和党メンバーに配慮したものであり、これがEU本部の無理解を引き起こし、この元EC役員は自分がそこで冷笑的とかデマゴギーだと非難されていることを知る。当事者である彼は、「愛国的なドゴール派で、ヨーロッパ統合主義で、進歩主義の系統」であると自認しており、逆に自分にはECでの経験があるので、「新たなBrexitを避けるために」、EUの機能不全を批判し、それを改善しようとする正当性があるのだという。
共和党内では、「バルニエのミステリー」についてたびたび話題になっていた。淡々として穏やかで礼儀正しく、思わせぶりなところはまるでなく、ほとんどつかみどころがない。「彼と仲違いするのはすごく難しい」と、彼の友人であるミシェル・ブヴァールは認めている。彼はほぼ半世紀にわたって政治に関与しながら、実質的にかすり傷ひとつなく、右翼のあらゆる不和から逃れており、そこには最悪の惨劇もあった。1995年にジャック・シラクは、彼との関係は冷え切っていたのだが、彼がEdouard Balladurを支持していたため彼を国務大臣に任命もした。
2007年には、ニコラ・サルコジもまた彼の関心をひかなかった。「私ぐらいの年齢だと、誰か新人みたいに登場するなんてことがとても信じられないんだ」と、彼は2021年秋にル・モンド紙で自賛している。サルコジ派のBrice Hortefeuxが、彼を右翼の「トンプソン少佐」と呼んでいたように、政治派閥の内部では、彼はわずかに尊大なところがあるとみられていた。彼の関心の中心である、ヨーロッパ統合と環境問題は、ド・ゴール支持者たちには人気がなく、派閥の人々はこれを揶揄していた。「誰もそれに関心を持たないのに、バルニエはこの惑星を救う著書を何冊も書いていた」と、2022年の大統領選運動の際に前大統領顧問Pierre-Jérôme Héninは何度も言っていた。「ミシェル、そんなの小鳥の囀りだよ」と彼を笑うものがたくさんいた。しかし、右翼のメンバーは彼を「公明正大」で「一貫している」と認めており、彼の党への誠実さを称賛している。大統領予備選での彼の2人のライバル、Valérie PécresseとXavier Bertrandは、共和党との関係を絶ったのちに共和党を離党しなければならなかったので。
粘り強くて理にかなってもいる、バルニエは何も成り行き任せすることはなく、付け焼き刃を嫌う。EU本部では、彼はすべてのつじつまがミリ単位で合って、後退する予備陣地がリスト化されていなければ交渉に入ることがなかった。「自分は前もって計画し先取りするのが好きだ」と、彼は何度も言っている。彼とともに働いたPierre-Jérôme Héninは、2021年にル・モンド紙に対して、EU本部のコンセンサスの文化を共有するこの人物の「統合者としてのプロフィール」と「ドイツ-スカンジナビア風」の外見を称賛している。「彼は、解決策を見つけるために、うまく人々をテーブルにつかせることができる。」
ここで言われた手法は、首相府としては貴重なものだろう。政治危機での今回の首相は、脆弱にはなったが統制を失いたくない共和国大統領と、分裂し報復を目論んでいる国民議会との間で、身動きが取れなくなるだろう。共和党は、この国民議会で47議席を有するのみである。「決して党派主義ではいけないよ、それは弱さというものよ」(*Ne sois jamais sectaire, c’est une faiblesse )と、彼の母親は彼に繰り返し語った。これは来るべき未来のための賢明な忠告だった。
(Le Monde紙 2024年9月7日)