誰がフランス社会主義を殺してしまったのか

誰がフランス社会主義を殺してしまったのか

 


仲間内でこの議論が繰り広げられています。ここで提起された問題はとても深刻で、その影響力は不穏な感情が爆発しかねないと懸念されたほど歴史的なものだったため、それは好都合なことです。フランスの社会主義が死んでしまったのは誰の責任なのか。ジョレスの政党にとどめを刺したのは誰なのか。新年度が始まるにあたって、これは左翼と、波及して全ての政治的スペクトルをも揺さぶるテーマなのです。


2017年にフランソワ・オランドが再出馬を断念し、自滅的となった一次投票を通じて社会党が結果的に分裂した際に演じられたドラマについては、確かにそれほど露骨な言い方で語るものはいません。その痛手は当座は誰も誇張しないほどでした。その被害報告は、ほぼ気付かれずにやり過ごされたぐらいに控えめなやり方で執り行われたのですが、その3年後に再びこの悲劇が、箱から出てきた悪魔のごとく避け難く突然登場したのです。大統領選の予想のなかで、第一書記のオリヴィエ・フォールは、社会主義エコ派連合の提案を促すためには社会党は2020年の大統領選で候補者に出馬できないと考えていることを隠そうとしません。


フランソワ・オランドが即座に立ち上がります。フランソワ・ミッテランが再建したこの政党を11年間にわたって主導してきたこの人物は、 8月29日のOuest France紙のインタヴューで、この組織は左翼の中心勢力となるべきものであって、エコ派の候補者にもジャン=リュック・メランションにも「加わる」ことは許されないと宣言します。オランド支持者たちは、一致した意見としてこのメッセージを受け継いでいます。かなり衰えたとはいうものの、彼らはその信念を呼び覚ませると考えているのですが、どっこい次はリオネル・ジョスパンの番で、彼はこの討論に勝手に押しかけます。自らに課していた掟を破って、この元大統領は『Un temps troublé』(Seuil出版社、256ページ、19ユーロ)を出版します。これは遺言の書であり、左翼はそこに次の2つのメッセージを読み取ります。フランソワ・オランドはその任期中に自由主義者エマヌエル・マクロンに影響力を取らせてしまい、そのために社会主義の道を誤らせた。大統領選の二次投票まで行けるのは、今日ではエコロジー左翼連合だけである。


フランソワ・オランドリオネル・ジョスパンも、ともに15年の間隔をおいて同一の悲劇を生きています。いずれも左翼連合(la gauche plurielle)の分裂の犠牲者であり、いずれも国民前線の拡大を阻止するにあたって無力でした。フランス社会主義は思想的にも歴史的にも格差を縮小させる闘いに関与していましたが、これを生きながらえさせようとしてこの二人の人物が感じた困難さには共通した理由があり、このため2002年の衝撃は大まかには2017年のそれの前触れであったことに同意できると思います。


加速するグローヴァル化は、やっと市場経済に転向したばかりだったこの思想の流れを完全に混迷させました。つまり、フランソワ・ミッテランが要望したヨーロッパ構築(une construction européenne)のまさに内部でも租税競争措置が制定され、これによって彼らは一部の力を削がれました。職業キャリアの多様化と個人主義の台頭との効果のもとで方向を見失った社会階層は、2002年にジョスパンが共通のプロジェクトを中心として民衆階級や中間階級といった浮動層を結集しようとして訴えた「新たな結束(la nouvelle alliance)」を非難しました。


しかしリオネル・ジョスパンは、最終的な2017年の最終的な敗北に加担させられることは肯いません。彼は自らの政府の成果を徹底して堅守しています。若年者雇用と35時間労働制を自賛し、それが彼自身の方針であったことを思い出させています。「市場経済は認めるが、市場社会は認めない。」これは、ヨーロッパの左翼を社会主義自由主義の旗印のもとに巻き込もうとしたイギリスのトニー・ブレアに対して、彼が距離を置くことを可能とした方針です。社会主義とは今でも本質的に自由主義に対する闘いであると声高に言って、今日でも左翼の喝采を受けることを可能にしている方針です。


メランションは大喜び

ジョスパン-オランドの対立は、フランスの社会主義が急進性を取り入れたプロジェクトを中心として融合できず、この期間に権力が行使できなくなったことを確固たるものとしました。アンテルナシォナリスト・コミュニスト連合出身のジョスパンにとって、第一書記としていささか熱心に綱領を手直ししようとした超派閥のオランドの評価は厳しい。以前ジャック・ドロールの弟子だったジョスパンが大統領府にまでたどり着いた時、渋々と譲歩した唯一のイデオロギー上の進展は、「社会主義-民主主義者」であることでした。しかしながら、こうした実験を推し進めるには客観的な条件が存在しなければならないのです。しかるにフランスの労働組合はといえば、競争力が足りないもしくは無いのが特徴という経済の文脈の中で社会をめぐる有効な対話を進めるにはあまりに非力すぎました。社会主義者たちはといえば、依然として財貨の産出における民間企業の優位性を受け入れられる状況ではありませんでした。左翼はサプライサイド政策の転換を待たずに始めています。彼らは、フロランジュを中心に大統領任期が始まった途端にスタートしています。


社会主義という言葉を諦めてはいけない。その理念は誰かが拾うだろうから」と、フランソワ・ミッテランは予想しています。その人物はいます。ジョスパンの本が出版されてから、不服従のメランションは上機嫌です。彼は自分が社会主義であったことを覚えており、フランソワ・ミッテランへの敬愛を思い出しています。彼は経済と反リベラルの2つの立場を取って、新エコ派左翼の主導権を獲得しようとヨーロッパ・エコロジー=緑の党の代表たちと争おうとしています。その対岸では、元オランド派からマクロン派に移ったジャン=イヴ・ルドリアンが、共和国前進や保守中道派とともに、民主主義連合である「社会主義=改革派」、つまりあらゆる革命に関係する集団の救いの女神(vierges de toute référence révolutionnaire)を作ろうと画策しています。彼は1984年にル・モンド紙に発表されたそのマニフェストにおいて、「現代的であるために、民主主義でありましょう」と宣言しています。フランソワ・オランドはその署名者の一人なのです。これはみな遠い過去に由来しているのです。

(Le Monde紙時評 2020年9月9日)