二つに分断されたフランスの図式

二つに分断されたフランスの図式

 県ごとのレヴェルでは、今回のEU選挙の結果は共和国前進と国民連合との対決という形になった。

 

 このEU選挙でまず驚くのはその投票率で、登録有権者の半数以上(50,1%)が投票に出向いていて、つまり2014年よりも7,7ポイント多い。これは1994年の投票率(52,7%)とほぼ同等で、その後の投票率では2009年の40,6%が最低として知られています。

 

今回跳ね上がった投票率は、複数の要因から説明されます。まずは投票制度を国家単一投票区としたことが、争点を再び政治的にすることとなりました。2004年から採用されていた、複数地域にまたがる、選挙以外には全く実体性のない8選挙区への選挙区割りは、有権者の無関心を助長しました。6ヶ月間にわたった強い社会的な緊張と政治的議論の高まりを経て、投票に出かけることの回復がおそらく加速されたのです。

 

県や海外領土の枠をこえて、棄権傾向はコルシカとセーヌ=サンドゥニ県で最も強く60%を超えました。それとは対照的に、ロット県、ジェール県、ドルドーニュ県では、58%を超える投票率有権者が最も投票に参加し、それにパリの57,9%が続いています。

 

各県の結果のレヴェルでは、「共和国前進(LRM)」と「国民連合」とによる二極化が、べったりと塗り分けられた2色のカードとなって現れました。大統領の与党に支持された候補者たちは、31の内地県と海外の3つの県・自治体で首位を占めました。それはフランス領ポリネシア(43,3%)、ワリス・エ・フトゥナ海外県(37,1%)、オート・ド・セーヌ県(33,6%)、パリ(32,9%)、イヴリーヌ県(30%)で最高得票を達成しています。その逆にマイヨット島(8,0%)、レユニオン島(10,4%)、オート・コルス県(14.3%)、エーヌ県(15,6%)、コルス・デゥ・シュド県(15,9%)では、最低という結果になりました。

 

社会党にとって最悪の結果

マリーヌ・ル・ペンの政党は、海外の7つの県・自治体と、同様に65の内地県においても頭角を現しています。なかでも、隣接するコモロからの大量移民が引き起こした深刻な社会危機に見舞われたインド洋の県マイヨット島において、投票数の45,6%と最多得票。内地では、エーヌ県(39,8%)、パ・ド・カレ県(38,1%)、オウト・マルヌ県(36,1%)とアルデンヌ県(35,9%)で最高投票数を獲得しています。逆に、パリ(7,2%)、オート・ド・セーヌ県(9,4%)ヴァル・ド・マルヌ県(13,3%)、ワリス・エフトゥナ県(13,3%)とイヴリーヌ県(14,4%)では最低となる仕打ちを受けました。

 

ヨーロッパ エコロジー=緑の党は、コルシカ島の2つの県で20%の大台を越え(オート・コルス県で22,7%、コルス・ドゥ・シュド県で21,1%)、パリ(19,89%)ではその大台をかするにとどまりました。20の県もしくは自治体において10%の閾値を下回り、内地県ではオート・マルヌ県(7,8%)、エーヌ県(7,8%)で最低得票との結果となりました。

 

共和党(LR)に関しては、結局いずれの県でも20%を越えることができませんでした。最も高い投票数である19,6%を獲得したのは、オート・ロワール県、総裁であるローラン・ヴォキエの県でした。公表された投票数の10%を上回ったのは、25の県・自治体のみでした。

 

社会党にとっては今回の結果はさらに悲惨で、27の県・自治体において5%を下回りました。 10%のラインを超えたのは、サン・ピエール・エ・ミクロン県(11%)とランド県(10,5%)だけで、27の県・自治体で5%を下回っています。「フランス不服従」に関しては、レユニオン島(19%)、仏領ギアナ(13,6%)、グゥアデロープ島(13%)、マルチニーク島(12,9%)とサン・ピエール・エ・ミクラン県(11,9%)で10%を超えることに成功しましたが、ジャン・リュック・メランションのこの政党が内地でこの目標を達成したのは、セーヌ・サンドゥニ県(11%)とアリエージュ県(10,7%)だけです。20の県・自治体で5%以下にとどまっています。

 

国民議会の解散」

国家レヴェルでは、「共和国前進」と「民主運動」の支持する候補者たちは、22,4%となって国民連合が支持する候補者たちの23,3%に凌駕されています。さっそく、マリーヌ・ル・ペンは、エマヌエル・マクロンには「少なくとも、国民議会を解散する以外に選択肢はないであろう」と言っています。ただし40年前から、ヨーロッパ議会の選挙が現職の共和国大統領の陣営に有利に働くことは稀だったのです。

 

初回選挙の1979年は、ヴァレリィ・ジスカール=デスタンが大統領府にいたために、特別な存在となっていました。シモーヌ・ヴェイユの率いる国民民主連合の候補者たちは、27,9%の投票数でやすやすと首位となっています。

 

フランソワ・ミッテランは、その14年間の大統領任期の間で、3回のEU議会選挙で社会党の候補者たちが首位の座を獲得することが決してなくても、それをスキップ(enjamber)しようとは思わないでしょう。1984年当時に社会党の指導者として、20,8%で国民民主連合-共和国連合の連立(43%)が優位となったリオネル・ジョスパンもそうであり、1989年には23,6%で、国民民主連合-共和国連合の連立(28,9%)が優位となったローラン・ファビウスもそうであり、1994年には14,5%で、国民民主連合-共和国連合の連立(25,6%)に再度差をあけられたミシェル・ロカールもそうでした。この初回の投票のせいで、国会議員選挙で右翼が勝利したのちに、エドゥワール・バラドゥールが首相となったコアビタスィオンの時期になったのは事実です。

 

1999年にもコアビタスィオンは依然として続きましたが、この時の大統領はジャック・シラク、首相はリオネル・ジョスパンでした。大統領陣営の共和国連合の候補者のメンバーは、その中からニコラ・サルコジが総裁を委任され、12,8%でフランソワ・オランドの率いる社会党(22%)、シャルル・パスクァのフランス国民連合-「フランスのための運動」(13,1%)についで、第三のポジションとなっていました。

 

2004 年からは、国家単一の選挙区制から複数地域にまたがる8選挙区制の投票となりました。ジャック・シラクのUMP(16,6%)にとっては、社会党(28,9%)に抜かれ、大して上手くいきませんでした。

 

ニコラ・サルコジの大統領選から2年後となる2009年には、そのUMPが27,9%で再び勝利を手にし、断然と首位になっています。EU議会の選挙で、大統領側の陣営が画期的な2回の勝利を獲得した間には、30年の期間があります。その5年後、フランソワ・オランドがこの国の大統領であった2014年に、社会党は、国民前線(24,9%)とUMP(20,8%)を勝たせる形で大きな敗北(14%)を被っています。しかしながら、それでは国政選挙を招集しましょうなどとは、誰も考えてはいないのです。

(Le Monde紙 2019年5月28日)