「dégagisme」はもうすぐ辞書に載るのか。

La France insoumiseの指導者、ジャン=リュック・メランションによって広められた「dégagisme」という言葉が、国民議会選挙の際に、共和党の不出来な結果や社会党の崩壊を説明するにあたって、再び登場した。しかしこの見慣れない言葉は、どこから現れたのだろうか。Le Figaro紙がこの疑問を検討します。


今回の伝統的な既存政党の破綻には、これからは名称を与えられました。「dégagisme」です。これは(まだ)公式ではないとしても、すでに政治用語とジャーナリズム用語においてはしっかりと確立されており、残っていくでしょう。それは、社会党が壊走し(2012年の40.91%に対して7.44%)、共和党への投票が確実に減少した(2012年の37.95%に対して15.77%)国民議会第一次投票での最近のその衝撃的な使用例を見れば、明らかです。しかし、この新しい言葉はどこから来たのか。にわかにもてはやされてはいますが、辞書に統合されるのでしょうか。

少し時間の流れを遡りましょう。1月29日にマヌエル・ヴァルスが社会党の指名で敗北してからのフランスの情勢の中で、ジャン=リュック・メランションがこの新語に衆目を集めたのだとすれば、彼はこの言葉を贈与された、というよりはそれを引き継いだことになります。表面的には、La France insoumiseの指導者が広めていきたいと願う、近頃のフランスのinsoumission(不服従)のウネリを象徴していますが、実際には「dégagisme」は最近の話ではなく、6年前に始まります。2011年、その基盤を理解しようと考えるなら、さらに正確にはチュニジアジャスミン革命の際にさかのぼります。

そもそも、この用語は、その根本に革命的な役割を担っています。先の大統領ベン・アリに反抗して、街頭で命令の形で、最初に「Dégage !」を使ったのは、チュニジア人たちです。それまでこの新語に、チュニジア国家元首を「dégager」(取り払う)したいという嗜好や定義だけがあったとすれば、その定義はとても迅速に外国で取り入れられ、新たな意味を手に入れます。

かくしてこの言葉は地中海を渡り、ベルギーの色合いを帯びることになります。ベルギーでは、機能しうる政府がないという状況が541日間に及ぶという危機からやっと脱したばかりの状況で、デガジズムは極左集団に取り上げられ、ある声明の対象となりました。理論家、ローラン・ダーセルは、そのManifeste du dégagismeにおいて、このような言葉でこれを説明しました。「権力を取ることではなく、権力を占有する者を追い出し、その占拠していた場所を空けることが重要である。」それゆえこれは、国民の声を聞く度量があるという、権力者としての本質を失ってしまった政権への警告であることがわかります。

したがって、このように記述されたこの言葉が、今回の選挙期間の数ヶ月間に、政治におけるシラガ頭たちへのウンザリ感を表明するために再登場したことは驚くことではありません。国民議会選挙の初回投票で、社会党とその幹部たち、ブノワ・アモンと同様にジャン=クリストフ・キャンバデリス、マティアス・フェクル、オーレリー・フリペッティを襲った出血大損失が、完全にそれを表しています。しかし、次の辞書に「デガジズム」を組み入れるためには、これらの出来事で本当に十分なのでしょうか。私たちは暗に二つの大辞典のことを言っているようですが、ラルースとロベールを見てみましょう。


「かなりの確率で採択される単語です」
まずラルースについては、それを語るにはまだ早すぎです。「プチ・ラルースに収載されるには、ある言葉が私たちの日常言語の 一部とならなければなりません。この言葉が、今回の国民議会選挙の文脈をさらに超えていくのかどうかを見るまで、待ちましょう」と、ラルース出版の広報部長 アンヌ・シャピロ=ニールははっきりと言います。

ロベールはどうでしょう。「不眠不休の部署があるおかげで、私たちはすでにこの用語に目星をつけていました」と編集部長マリー=エレーヌ・ドリボは私たちに告げました。「各自がその指摘を書き込めるような一つのデータベースがあって、5月の終わりにはそこにこの単語のカードが作られています。その次にこの言葉は、これを新語の大データベースに組み入れた資料処理者たちによって書き直されました。だから、新たな言葉を採択していく編集委員会としては、それは9月の新学期までにはおそらく高い確率で採択されているでしょう。」

動詞「dégager」に、通常ならば政治の流れや学派もしくは教義を示す語尾「-isme」であり、おかしな形態ではあるですが、この言葉は他の言葉と同じように取り扱われるでしょう。「その形がおかしいからといって、これを除外する十分な理由とはなりません。」「この言葉は、現行のシステムを一辺に換えてしまいたい、という有権者のウンザリ感だけではなく、今まで抱えていた政治家たちを追い払いたいという人々の欲動をも分かりやすく表しています。」その背景と形態とを合わせて考えれば、マリー=エレーヌ・ドリヴォが「かなり暴力的だ」と考えるこの言葉は、現在の政治の状況を映し出しているのです。そして私たちはそこに、もっと広く私たちの社会の状況までも付け加えましょう。
(Le Figaro紙サイト 2017年6月13日)