恐怖と地獄の4日間

1月16日水曜日がチゲントリヌ・ガス採掘地、アルジェの東南1300km、サハラ砂漠の真ん中イン・アメナスの街から40km離れた場所で始まった。そこはリビアとの国境からたった数10kmの場所でもある。朝5時ごろ、ソナトラハ社(アルジェリア)、BP(イギリス)、スタトイル社(ノルウェー)によって共同開発されたこの敷地内に、突然襲撃を知らせる警報が鳴り響いた。この場合に従業員に指示されていたことは、その場にとどまり身を隠すということだった。このため、あるフランス人は40時間近く、現地従業員による補給を受けながらベッドの下に身を隠すことになる。3人のイギリス人は、カフェテリアの天井裏に隠された避難所を見つけることになる。あるものは事務所にバリケードを作る。しかし多くの従業員は居室にとどまっていた。ベースキャンプの外で銃声が鳴り響いた。戦闘服を着た30代のイスラム集団の戦闘員達が、警備員によって警護された従業員用の空港送迎バスを攻撃した。この衝突によって最初の犠牲者たちが出た。バスから逃げようとした3人の日本人が殺された。テロリスト達は、車と10人ほどの人質を奪って敷地内に侵入しようとしたのだ、と一人の警備会社の従業員は語った。
基地に侵入するとすぐ、テロリストたちは「キリスト教徒と異教徒たち」を捜し始めたと、アルジェリア人目撃者アブデルカデルはロイターに語った。ドアを壊したりして、彼らは居室内を人質を探してくまなく調べる。彼らは「探すのは外国人だけだ、アルジェリア人は出て行ってください」と叫んだ。現地従業員は呼び出されて基地から出された。外国人は、うち7人が日本人だったが、理由もなく容赦なく殴り倒された。「もう死を覚悟するよ」とある日本人は語っていた。基地は恐怖に陥った。多くの人質が、頭に銃弾を受けた状態で発見されるであろう。さらにテロリスト達は、「外国人達を集めて輪の中に入れ、全員の首に爆薬を巻いた」と、あるアルジェリア人従業員は「mail on Sunday紙」に語った。一方で自分たちアルジェリア人は、別に集められて扱いも丁寧だった。連中は俺たちに、お前らは殺さない、イスラム教徒だからだ、探しているのはキリスト教徒だけだ、と言っていた。
30代くらいの重装備のイスラム集団の戦闘員たちは、驚くほどよく知っているかのように自在に基地内を移動した。同様に彼らは、ベースキャンプから3kmほど離れた場所に工場があるが、そこから制御される前に自分たちでガスの生産ラインを停めた。高度に警備された複雑なガス工場を占拠するために、イスラムの戦士たちは明らかに内部の共犯者を利用した。アルジェリアの「リベルテ紙」は、ある基地の納入業者がイスラム集団と関係していたと断言している。テロリスト集団は、交渉の用意があると公言していた。彼らは、軍隊の撤収を要求し、人質と共に逃亡する経路の確保、そしてイスラム集団の囚人釈放を強く要求していた。驚くまでもなく、これまでのやり方どおりにアルジェリア政府はこれを拒絶した。
水も食物も与えられず、人質たちは終わることのない最初の夜を過ごした。57歳のノルウェー人と7人の人質が暗闇に乗じて逃亡し、砂漠を横断し約50km離れたイン・アメナスの街に戻っている。17日の朝、テロリストは自分たちが軍隊によって包囲されていることを確認した。この時「彼らは戦略を変更した」とある目撃者はRF紙に語った。「彼らは人質を外国人とアルジェリア人に分け、アルジェリア人を開放したんだ。」この時、何人かの戦闘員が、人質を満載した車輌に乗り込んで逃亡しようとしたものと思われる。戦闘が始まる。軍の一機のヘリコプターが戦闘を開始し、何とか最初の封鎖線を突破した5台の車輌にロケット弾を撃ち込んだと、唯一の砲撃を免れた車輌から発見されたアイルランド人の人質、ステファン・マクフォールは語る。ここで、アルジェリア軍は最初の襲撃を行う。この混乱に乗じて、400から500人の人たち、そのうち大多数がアルジェリア人だったが、が逃亡した。2度目の襲撃でベースキャンプは開放された。しかし、攻撃を生き延びた10人ほどのテロリストが、居合わせた7人の人質と共にガス工場に立てこもった。19日朝、アルジェリア軍は再度攻撃を行った。テロリストたちが施設に放火したことは確かで、軍を粉砕するために施設の一部を爆破したと語った人物もいた。自分たちが殺害される前に、テロリストたちは7人の人質を処刑した。地獄はかくして4日間続いた。
(Nouvel Obs.誌 No2516, 48-49, 2013.1.24)