グローバル化のせいで途方にくれた左翼

右翼は、エリートのポリティカルコレクトネスを批判し、左翼から文化的な支配権を奪った。それゆえ、進歩主義者たちはその概念的な手段を換えなければならない。

「Esprit」誌編集部長アントワーヌ・ガラポンによる

世界は変わるのである。世界は、新たな産業革命と呼ばれるものによって一変させられているが、しかし、世界との私たちの関係の根底にあるものが影響を受けるほど、様々な点でそれがさらに根源的であることは明白である。

この「大きな変革」の前では、右翼と左翼は対等ではない。何よりもまず、右翼がこの革命の創始者であると主張するからであるが、もっともこの革命が、1990年代における新自由主義の転換点が、デジタル化がもたらした社会の断絶や貿易のグローバル化と出会うことによってもたらされたものであれば、その資格がないわけでもない。

その結果として社会的格差が生じたのは、右翼が、ポリティカルコレクトネスや、専門家や、エリートや、自明なはずの見解に対して体系的に正反対のことを行うことで、つまり自分たちから提案すること以上に相手を告発することによって、左翼から文化的な支配権を奪ったからである。

「コンプレックスはもうない」(ドナルド・トランプに好都合だった常套句)などと言うことで、この言葉は左翼にそのコンプレックスを思い起こさせる。白人だとか、男だとか、かつては植民地支配者だったとか、さらには知的に優位であるというコンプレックスまで。右翼は、政治的立場を超えて宥和的であろうとする左翼の態度まで嘲る。


この悲劇を認めないこと
得てして粗暴なグローバリゼーションがもたらす現実には、 おそらく左翼がいささか夢想しすぎていた抽象的で難解な普遍主義を、ますます調子はずれだと思わせる逆説的な効果があるのは事実である。進歩への誘惑は、着実で持続的な風俗の平和化(pacification des mœurs: *ノルベルト・エリアス)、すなわちこれは悲劇ではないとすることや、 確かにヨーロッパの建設は混沌としているが後退することはあり得ない、もしくは20世紀の残虐さはヨーロッパにとって戦争の再来を永久に防ぐワクチン接種となったのだとかいう信念への信仰を左翼階層に抱かせた。

このような「都合のいい認識」は、私たちの世界のネガティブさを包含する能力がないがゆえに、今日では衰退している。繰り返されるテロ行為は、世界が理解しがたい野蛮さに逆戻りしていることを目の当たりにさせた。つまり、フランスには敵があるのだ。しかし左翼は自分を責め続けているのだ。

この支配的な考え方は、現在起こっているこの革命が徹底的に非政治的なものであるがゆえに、右翼が実際にもたらした以上に長く続いている。これは、20世紀の革命と同様にイデオロギー的なものではあるが、この革命のもつ先入観は科学技術の後ろに、その選択はエヴィデンスと称されるものの後ろに身をひそめ、その前提条件とすべきものは実現されてしまうことでスルーされ、その失敗は、成果を約束する前に逃げてしまうことによって隠蔽される (最新のところではGoogleの不死の展望)。前世紀の様々なイデオロギーは、ある理念についての論理 であり、それは、考察を要せずそれのみで完結しうる論理の理念、思弁を全く必要としないような数学、経済学もしくは科学技術といった理性の理念を重視する。

表面的には完全自由主義的であるにも関わらず、この革命は非常に拘束力を持つものであって、つまりその規範は現在私たちが認知しうるものの裏に隠れているのである。今や法はデジタル・アーキテクチャのうちに見出されるものである。アメリカの法学者ローレンス・レッシグの有名な表現を再度あげるならば「コードは法である」。この「世界の新たな理性」(2009年にLa Découvertから出版されたPierre DardotとChristian Lavalの試論のタイトル) の力は、右翼/左翼の対立を崩壊させるようなものだ。いずれもが最後の幻影であって、なぜなら世界のこの変容に直面した反応が多様であることが示すように、右翼や左翼が存在し続けているのは、歴史的な延長線上にあるもの、哲学的な座標軸、そして独自の感性(sensibilités propres)としてなのである。


右翼は開いたり閉めたりを組み合わせる
右翼は、必要なことであれば無節操に行うことで、つまりは一方では市場やその他の原則に従いつつ、もう一方では 以下にあげる政治以前に自明な二つの認識の中に後退することで、この反政治的なグローバリゼーションの高まりに対応する。それはつまり、伝統が生み出すアイデンテティと、政治的なすべてのものの前提条件となる安全保障である。この姿勢によって、障壁を正当化する特権や、安全な再テリトリー化によって経済の脱テリトリー化を代償する特権を有する、アイデンティティーとか安全保障を、開けたり閉めたりすることを組み合わせる(?: combiner ouverture et fermeture)ことが可能となる。

左翼はその歴史の中で、文化の割り当て(?: assignation de la culture)やその本性である諦念に抗うことをやめなかった。しかし、どうやってこの伝統に今日新たな価値を見出せばいいのか。意志に訴え続けながらも、現在進んでいるこの変革は、それとは逆に加速・増強された生の安逸への欲求や、恐怖や、魅惑に基づいているのであって、それは正しい政治的な感性というよりはむしろ欲動である。

現在展開しつつある革新に直面して、左翼の反応は様々である。左翼は、実験的なe-démocratieに取り組んだり、civic tech(市民みんなのテクノロジー?)のもたらす成果を推奨したり、オープン・ガバメントの可能性に賭けている。しかし、これらの構想は、問題点となっていること、つまりは国民を創り出し市民を作り上げるということを既成事実としていて、いくら機能面で進歩したとしても、それは政治の実現にあたって必須となる象徴的な次元を替えることにならないであろうということが解っていなかった。

他には、レジスタンスを訴えている人たちもいる(ジャン リュック・メレンションの「服従しないフランス」)のだが、何に対するレジスタンスだというのか。グローバリゼーションとか?真のレジスタンス、それはフランス社会、私たちの体制の古臭さや貧相な代表制の中にはないのではないか。こういう発言は、左翼を、懐古主義者たちのつまりは悪質な、気難しい連中のでっかい組合にしかねない。

他のいくつかの反応は、民主主義という消え去り行くディメンションを社会の中心で揺り動かそうとしている点で、その本性としてポエムじみている (Nuit debout 眠らない夜のように)。デジタル技術によって失われていく現実感は、政治的な経験への欲求を生み出し、このような主体性は、ポエムがすべてそうであるように「一つの世界の始まり」(ポール・ヴァレリー)になれればと願っている。

左翼、特に環境保護を主張する左翼に楯つくつもりはないが、政治経験とやらでどうやって世界の高みに登るのか。問題が「マクロ」であってその規模を増すほど、その解決方法は「ミクロ」であり、共生的で、地域的で、共同体的なものなのだと私は言いたい。問題点が劇的で強硬であるほど、その解決法は柔らかく、問題点が専門的技術を必要とするほど、それへの反応はマヤカシめいているものだ。

そして、もしも左翼の時代が、産業革命、サラリーマン制度、階級闘争とともに終わっていたとしたら?この新たな革命は、階級闘争なぞ掻き立てていないのではないのか。いや、政治的ビジョンの核となるものと、それが役立てるべき新たな文脈とをうまく分けて考えさえすれば、それは違う。自己疎外と自由、人間の共存を適切に組織化すること、多様性に基づいた公的空間の設立などと同じように、複数の基本的概念が、この世界規模の革命によっても必ずしも無効とされることなく、形を変えて現れている。


税制の決定的な問題点
まずこの新しい世界においても、圧政や格差や尊厳の毀損は消滅しておらず、むしろ反対に新たな形をとりつつその規模を変えている。さらにそこには、ある重要な試練、この惑星を保全し未来の世代が住むことができる世界を配慮するというかなり重要な試練が加わる。世界は、環境もしくは正義の問題点を考えるにあたって基準となる、新たな空間である。脱テリトリー化は、労働の新たな分割を指し示す。それは労働の辛い部分を世界の向こう側に分散させ、それを見えないものとし、働くものたちと、この労働から利益を得るものたちとの間にある勢力バランスを解体する。その衝突する場所は消失し、もはやどこにあるのかも分からない。

グローバリゼーションは多くの格差、すなわち税制と「コモンズ」(水や森林といった共通の資産)のはらむ問題点を決定的にするものを生む。グローバリゼーションとは、(脱テリトリー化が再テリトリー化をもたらすのと同じように)、時には仲介を外すことであり、再び仲介に入ることでもあって(une désintermediation et une ré-intermédiation)、ポピュリストたちがエリートたち(*旧い仲介者)に声高にヤキを入れているのは耳にしても、巨大ネット産業や大金持ちたちのような新たな世界の支配者については、(特にそれが指導者のお友達である場合には)彼らは見事に何も言わない。それは当然であって、支配とは一つの関係であって地位・身分ではない。

グローバル化の風は左翼にとって望ましいものではなく、それはこの風にうまく対処すること、いわば人々が引っ込み思案で保守的で、民主主義に疲れてしまったようなある時代に、政策を提示し続けることを学ばなければならないからである。つまり、真理がもはや必ずしも革命的なものではない時代に、世界の発展に意味を求めることとか、悲劇的な側面を理解しつつ欲望が幅を効かせるような時代における政治的な災厄を物語とすることとか、 手段としての一つのヨーロッパにおける地政学的なものを作り直すこととか、 科学技術が個人主義を助長する世紀において共通感覚を呼び覚すこと、停滞することがこれまでになく切実であった時期でもフランスの歴史を続けていくこと。

次の3つに忠実であることを心がけることで、左翼はその進路を取り戻すであろう。平等ーすなわち個人の尊厳を促進することによって、真理ーすなわち科学技術のマヤカシの希望を受け入れないことによって、世界ーそれをすべてのものが住めるようにしようとすることによって。
(Le Monde紙 2017年1月7日)

アントワーヌ・ガラポンは、L'institute des hautes études sur la justiceの事務総長。Michel Rosenfeldとの共著で、Démocraties sous stress. Les défis du terrorisme global (2016年 PUF社)がある。