社説 ドナルド・トランプ、タブラ・ラサの大統領

ルモンド社説。2016年7月にひとたび共和党の指名を勝ち取るや、我々は偶像破壊者、道化者であり扇動者の大統領候補者、ドナルド・トランプが、さらに慎重で責任のある選挙運動をリードしていることを信じようとした(?)。それは全く違った。我々はそこで、次の大統領は、おそらく移行期間に課される責務を自覚して、個人攻撃や威嚇的なツイートはやめるだろうとタカをくくっていた。それは違った。

だから我々は、大統領就任当日に、ワシントンで4年ごとに繰り広げられる慣例通りの儀礼によって、彼が最高裁判所長官の前で聖書に手を置いて宣誓する時、ドナルド・トランプはついに大統領となり、彼の前任者たちがみな様々な形で行ったような、第45代合衆国大統領のスピーチを行うことを期待し始め、団結への呼びかけや、希望をもたらす展望、非常に激しかった選挙戦の痛手をいたわるポジティブで受け入れられるメッセージを我々は待ち受けた。それは全く違った。

2017年1月20日トランプ大統領が行ったのは、大統領演説ではなく、ましてや就任演説でもなく、新たな作戦演説、怒りと遺恨の演説であり、それは、アメリカ国家よりもむしろ彼に投票した人たちだけに向けられたものだ。典型的なポピュリストのスピーチで、彼は「国民」に直接語りかけ、その国民に彼は、忌み嫌われていた支配者層が掠め取っていた権力を、あるべき姿に戻すと約束して、国家を惨めな状況に沈めていた。

同じこの体制の中にいる共和党民主党の議員たち、そこにはわざわざやって来た哀れな彼の政敵イラリー・クリントンも含めて、トランプ氏の背後にある彼らの存在は、彼に対してブレーキとはならなかった。それどころか彼は、生放送でもその前任者を侮辱することを躊躇しなかった。トランプが、アメリカの不運に関して彼らのせいにしている全面的な責任は、依然として使い方を指導されるべきものとしてあり続けている。こんなアポカリプスの責任がバラク・オバマにもあるのだとすれば、その後任者としては羨む以外にない賞賛という利息を携えた彼は、どうやって政権の座を去ればいいのか我々には分からない。

全か無かの論法
しかしドナルド・トランプディストピアの闘士は、自分が拘束されているとは決して感じておらず、さらには事実によってなぞ強制されていないと感じている。門外漢であって、そもそも彼は、自分をスルーしていた連続性に組み込まれないよう、うまくやっていた。彼の演説には歴史的人物、建国の父たちが誰も登場しなかった。無駄なことだ、なぜなら彼が決定的だと考えるアメリカの歴史のページは、彼とともに始まるからだ。

しかしながらよく聴けば、この歴史のページというのは、狭苦しい、国境の中で閉じこもった、国境から出るとすればアメリカ人の利益のためだけだと心に決めたようなアメリカのページなんだという印象を抱く。トランプ氏が語ったのは15分ほどだったが、彼の素っ気ない発言は、ひたすらに世界の複雑さの拒絶を現している。彼の前任者たちは、開かれてあることが利益をもたらすという確信に基づいて、国家間の相互依存を保ち続けた。彼は世界に対して背を向け、ジハード至上主義の完全撲滅という使命だけにアメリカの支配力を矮小化するのだが、しかしその全か無かの論法ではジハディズムの根源は見過ごされる。

それゆえ現状はタブラ・ラサなのである。確かにいずれの政府も、象徴的となる行動から手をつける。オバマ氏は、グアンタナモ基地を閉鎖するとしてバトルを始めたが、結局は負けてしまった。トランプ氏は、彼に引き継がれた2本の柱に、正面から挑みかかった。ホワイトハウスに到着するなり、彼は大統領令によって、健康保証制度を拡張する医療保険制度改革の関連諸法規を軽減する命令を出した。さらに別の一連の大統領令は、その分野で彼が尊重する唯一の規則が市場原理でありながら、化石エネルギーを再び推進することを目指している。

「中身のない言葉」の時代は終わり、「行動」の時代だぞ。これ見よがしの過激さによって、彼の支持者たちは熱狂す るのであろうが、最近の調査もしくは2017年1月20日にナシオナル・モールに集まった人たちから判断するならば、その数は減り始めている。それでもトランプ氏は、呪詛して悦に入ったり、政府の有り様に対する非情な検事のような立場をすぐにやめなければならないだろう。今後は彼も合衆国大統領であり、自分が選んだことに対しては、その原因は自分であって責任がある。最善の場合には、彼は信じたいと思う。最悪の場合には、我々は怖れ・嫌いかねない(?)。
(Le Monde紙 2017年1月21日)