政治の迷路

エナルクで事業銀行家となったエマヌエル・マクロンは、2011年春にEsprit誌にある文章を公開している。そこで彼は、複雑な世界における政治的な行為の理論を展開している。それをここにたっぷりと引用した。


2012年フランス大統領選の準備が数ヶ月前から始まっている。(…) 政界にある全てのものが粉々となり、2001年の憲法の改正と2002年の施行以来その行跡を刻んできた大統領選および国民議会選挙に向けて終息した。(…) 成熟した民主主義や、ますます複雑になる問題をはらむ社会においては、全てのことが起こりつつある事態にふさわしい時間性と形態に応じて行われ、状況に応じてその形を変えることが出来なければならないのだが、そのためには何もなされていない。この政治的な時節は、それをめぐって全てのものが収縮し、そのときに全ての問題が解決を見出さなければならない大統領選の引きつけの覚悟の中にある。(??) しかし、それゆえこういった疑問が出てくる、人々は未だに政治に何を期待し、何を期待できるのか。

その制約は、私たちの現在という状況によって再構成されているのだが、それはどのようなものなのか。これらが政治の役割をどのようなものに変容させ、疑うまでもなくそうすることで、どのような結末になるのか。


短期的なものから長期的なものまで、政治のもつ時間性とはどのようなものなのか
長期的な展望にあり、複雑で、構造的で、ときに世界レベルの問題の出現と、即座に処置しなければ世論が許さないような当座の展望にある、経済的、社会的、民主主義的な問題との間には、この20年ほどで次第に隔絶が広がっている。

今日の「重大」な政治的問題とは、気候温暖化、国債、国際的な金融規制、世界的な格差、人口の高齢化であり、このいくつかをあげても社会システムの存続を危うくする。(...) これらの問題は長期的展望にあるものなので、政治権力は、必要となる構造改革を進めることなく、それに伴う政治的コストのリスクも取らずに、(荘厳なミサをするとか予定を書き込むとかの)象徴的な処置を取る。フランスには、短期的展望の問題を好むある種の傾向がある。長期的展望にある問題への対処がその前提とする規律には、ある政治的かつ社会的な合意や、その適用における一貫性をそこから構成できるようなメソッドが必要となる。

(...) このスペクトルのもう一端にある、当座の切迫した事態は、いろいろたくさんあるのだが、いずれも真っ当なものである。生活費、失業者、治安、住宅難などである。 (…) これらの短期間のテーマは、政治権力に圧力をかける。これらは、メディアによって広められ説明されてしまう政治的に切迫した状況である。このように政治的な行為の大部分は、司法の改革、警察官の配備、消費税の低減措置などといった、これらの切迫した事態への対応として繰り広げられる。今日の法の多様化は、他の審理と同様に国務院の報告を通じて告発(?)されているが、それはこの系統的かつ切迫した事態にシステムとして即応しているメカニズムが発現したものである。法とは、切迫した問題において政治が当座にそれに関与し、抵抗することの現われである。

(…) それゆえ当座の事態へのこの対応は、政治とメディアの、有効性が減じたある種の活動形態を前提とする。そのため採用された法は、政府による施行令がなく適用されないことがあまりに多く、その有効性がほとんど評価されず、これらの法は市民にとって有害となる法の不安定性と複雑性を生み出す。これらの当座の事態が、複雑な対処を必要とし根本的な活動を必要とするような、構造的な問題を浮き彫りにすることはなおさら確かである。

それゆえ政治的行為は、この二つの時間的要請によって引き裂かれる。長期的展望の問題は、ズルズルと先延ばしにしたりグダグダとはっきりものを言わないことに対して政治的行為を糾弾し、短期的展望の問題は、切迫した事態が不完全、とか全然不十分とか言われる。人々は、自分ではどうにもできないこと、もしくはそればかりがとても長い間永続するものに対して、国家がそれをすぐに切り抜けることを期待するからである。

現代の政治行為がもつ論理的な難点とは、この二つの時間的要請によって引き裂かれた政治には、もはや固有で継続しうる活動を作り出せるとは思えないという事実にある。


ますます増える複雑性の中に、政治的行為がしめる位置とはどのようなものか
今や政治は、多岐にわたる因果関係のためにますます複雑になっていく問題や、地域から全世界にまで及ぶ責任のもつれと妥協しなければならない。(…) それゆえ政治的行為とは、極度に制約された行為であって、おびただしい数の些末な行為であり、様々なプレイヤーたちの細かな調整である。地方分権化、すなわち独立した行政機関を増やした中央集権国家を分割したために、とりわけECの増え続ける規範の場は、その政治的な責任と行為とをますます分離させることとなった。(??) ほぼ全ての公共政策は、今や様々な階層の地位とプレイヤーたちとによって受け負われ、履行されている。(…) それは、発言と政治的行為の間にある種の不一致、もしくは少なくともズレをもたらしうるものである。

もちろん政治的なものは、ヨーロッパで増えつつある方法によって逆説的な言説を作り出す。それは全てのことに意見を表明し、全てのテーマに参加して、かつ同時に自らの限界や無能さを弁解することとなる。つまりECの受けている制約、これはすなわち政界の「固定化」された政界のデータともなる政策は(???)、政治的な意思決定、もしくはさらに厳密には拘束力の場を形成する。

(…) それゆえ政治的行為という幻想は、速く、短く、瞬間的な行為である。現実の制約や複雑さから解放されるフリをすることである。(…) 発表される時点があたかも行為そのものと同じ価値を持つべく提示される政治的行為の中で、全ては起こる。実行され、それに続いて調査が行政の領域に移る。(…) 現実や、反対意見、物事の流れと妥協しなければならない大小様々な一連の行為である。政策と行政の間に分離が広がることは、結果的にその適用を危ぶむというような政治的行為に付随する分裂病のような意味合いをますます深めながら法や改革が増えることとなり、この分離は、行政を実行し、必要となる現実と適合するための時間を潰したがる。(…)


政治的行為を再構成するために
政治的行為としての言説は、選挙において提案され、任期の5年間で適用されるであろう政治綱領には組み入れることができない。それにもかかわらず、大統領への集権化は、公的行為のもつ時間や複雑さという制約にはもはや適合させることができないような、この操作手段へと駆り立てる。その結果、ひとたび選挙が過ぎれば現実が訪れ、急な変化が訪れ、もしも公約に政治的な意味合い、すなわちやたらと象徴を駆使した政治的発言を首尾一貫させ、任務の付与という概念を賞賛するために、約束したことを実行したりすることがあるならば、公約をきっちりと履行することは、失敗もしくは諸々の過誤に至りかねない。

それではどうするのか。政治的発言と政治的行為にある信頼感を取り戻すような、ある種の政治的演説とその責任をどう復活させるのか。誰かを待つことはできないし、待っていてはならない。(…) カリスマ的な権力、もしくはある人物とその国民との邂逅によるシーザー主義的な痙攣によらずに有効に再建をなし得るのは、政治的な責任と行為を再構築する要素なのである。

(…) 今日、地方自治体が何をしているのかを知っているものがいるであろうか。その活動の質やその選択の妥当性を、どうやって判断するのだろうか。有効に政治的行為がなされるためには、ここを明瞭にすることが最初の条件であり、その政策を政治的行為に取り込み、それゆえその行動に責任を持たせることを可能にするものなのである。

政治的行為は、討論が永続的に常に活発であることを必要とする。 選挙綱領が、引き続いてそれを階層的に適用するために副次的かつ明文化されない方法で討論されるであろうものであれば、議決という演劇は政治的行為の表明とはなりえない。いまだに我々の共和国は頻繁に無視しがちなのだが、これが議会政治と社会民主主義のもつ功罪併せ持つ効果なのである。(…) 現代の政治的行為には、永続的な討論が必要である。候補者が国民を前にして行う発言とか政治綱領を見据えた、型にはまった作り込まれた論争ではなく、意思決定の流れを変え、それに方向を与えて、現実に適合させていくような討論なのである。

つまりこの文脈においては、もはや政治家は措置や施政方針を提示していくだけではすまされない。この社会について、討論を続けていくべき政府の基本方針について、そして同様に、今日的な民主主義のもの、現状を打開しずっと透明であり続けるものとしての政治的決断による実行について、一つの展望を明瞭にしなければならないのである。

大きな物語(grands récits)」について、ある分かりやすいポストモダンの批評が述べていることに反して、私たちはある政治家が「偉大なる歴史」について表明することに期待している。いわば、日常的な生活、社会的な拘束との決別について討論する筋書きで、これは集団的な嗜好の問題と同時に、集団の行動と選択の有する両義性をもつ問題を提起する。つまり、イデオロギーに再び現代的な形を与えるべき時なのである。政治的な言説は、一つ一つの措置を列挙する技術的手段のような発言ではありえない。社会とその変容に関する展望なのである。

例えば、住宅に対する政治的行為は、単なる技術的なものではない。それは我々の集団的な選択が、自由な不動産市場の機能を抑制するとか、もしくは不動産市場を優先することになったとしても、全ての人々にそこそこの住居を保証するのかどうかを知ることにあるのであれば、この政治的行為とは著しくイデオロギー的なものである。住宅政策に伴うあまりに重大な損失を避けるために、住宅政策が自らの欠陥の是正を目指すのであれば。

(...) 唯一イデオロギーのみが、技術的にこだわりや現状を固定してしまうことをあらためて非難することを可能とするのであって、イデオロギー的な討論のみが、政治に、目的志向がはらむ問題、いわばその正当性と同様に、既存の事実による制約を超える活動について考えるという問題を再提起することを可能とするのである。成熟ししっかりと熟考する民主主義システムにおけるイデオロギーとは、さまざまな措置を経ることによって、政治的行為を、別の世界のあり方を提案したり、それによって原理・原則の名のもとに時代に身を投じていく能力として修復していくための条件でもある。

つまりは、責任を果たすこと、討議すること、そしてその基となるイデオロギーが、その価値を再確認されるべき一つの政治的な言説や行為の、三連板に描かれる3つの光景なのである。無邪気に言っても許されるなら、これが2012年に (1)起こることを (2)見ることが (3)期待しうると (4)思われる ことである。
エマヌエル・マクロン
(Le Monde IDÉES 2017年5月27日)