谷口稜曄 核兵器反対運動家

谷口稜曄
1929年1月26日 出生
1945年8月9日 長崎にて被爆
2006年 長崎原爆被災者協議会会長
2017年8月30日 長崎にて死去


北朝鮮は「炎と怒り」に直面するだろうと予告するドナルド・トランプのハッタリが、彼の遠い前任者である アリー・トルーマンが1945年のヒロシマへの原子爆弾投下を発表した際の言葉と不気味に響き合う今、長崎の原爆被爆谷口稜曄(タニグチ・スミテル)の死は、核の劫火を生き延びた人たちが何年にもわたって受けた試練を、まさにここで思い起こさせる。

8月30日に癌で亡くなった谷口稜曄は、2回の核攻撃による15万人の「ヒバクシャ」のうちの一人であり、その中から、彼を始めとして核兵器撤廃を熱心に支援する人たちが出た。ノーベル平和賞の打診を受け、彼はその生涯にわたって核兵器廃絶のために闘った。

8月9日朝11時の長崎の原爆によって、即死もしくは数週間のうちに7万4千名の死者を出すこととなったが、その時彼は16歳だった。郵便局員で自転車で手紙を配達していた。

B29爆撃機がその原子爆弾ナガサキに投下したのは、本来の標的だった小倉の町の視界が悪かったためだ。同様にB29のパイロットたちも、ナガサキ上空に方向変換することにした。核爆弾が落ちたのは、人口が密集した地域 ウラガミで、そこはこの日本で最もキリスト教が根付いた町の聖堂があった場所である。


「背中の紅い少年」
爆発の時には、谷口稜曄は爆心から1,8kmのところで、町の中心部に背を向けて自転車をこいでいた。爆風が自転車ごと彼を空中に吹き飛ばした。瓦礫の中で意識を取り戻したとき、彼のシャツはなくなり、皮膚が剥がれていることに気付いた。背中、肩、左腕の指まで皮膚が剥離していた。彼は3ヶ月後まで病院に行くことができず、傷が治るまで2年余りもベッド上で腹ばいで過ごした。痛みはとても耐えがたく、彼は医師に何度も繰り返し、死なせてほしいと頼んだ。1946年にアメリカ軍が彼を動画に撮影し、これにより彼はアメリカで「背中の紅い少年」として知られるようになる。

彼は1929年1月26日に福岡で生まれ、まだ間もないうちに母親を失った。彼の父親は満州に出征し、長崎の母方の祖父母と暮らすようになった。義務教育を終えると、彼は郵便局員となった。

彼の入院生活は3年間続いた。しかし、彼が普通に座ったり、歩いたりできるようになったのは、その10年後である。そして彼は、核兵器廃絶を目指して活動する被爆者の小さなグループに入った。

彼が日本国内や海外の各地で行った講演の中で、聴衆に核兵器の恐怖を意識してもらうために、谷口稜曄は自らの傷の写真を見せた。そして、核爆撃の後で彼が目にしたものについて語った。黒焦げになった死体、肉が剥がれブラブラになった人たち、崩壊した家屋からは助けを求める声が聞こえる。死にそうな人間たちが、群れとなってさまよいながら水を見つけようとしている。

2006年に谷口稜曄は長崎原爆被災者協議会の会長となり、2010年には日本原水爆被害者団体協議会の共同議長となった。この立場から、彼は核拡散禁止条約に関する会議の一環として国連で発言を行った。

2015年に行われた長崎被爆70周年記念式典では、自衛隊の海外展開を可能とする安保法案について首相 アベ・シンゾーを批判した。「この法案は、長年にわたる核兵器廃絶の努力を脅かし、被爆者の希望を永遠に打ち砕きかねない」と彼はか細い声で断言し、首相に憲法を変えるなと厳しく言い渡した。2003年にはAFPに、「アメリカの核の傘が我々を守るというのは幻想だ」と断言している。彼の同胞である日本人たちも、これを疑い始めている。
(Le Monde紙 2017年9月15日 19面告知欄)