5年がたち、ツナミの記憶のなかに生きる東北

東京通信:  2両編成で冬には炬燵がつく、伝説のローカル線が営業を再開する。海のアルプスと呼ばれる三陸国立公園を横断するこの電車は、2011年3月11日の地震と、その後の津波から5年が経ち、日本で最も美しい海岸地方の復活のシンボルである。リアス式海岸、垂直に落ちる岸壁、岬、松の木が点在し、秋にはその緑に紅葉が調和する小さな入江や浅瀬が、思わず息を飲むような景観を呈している。

この国立公園は、東北地方で最も太平洋に突き出た部分であり、なかでも沿岸地帯は津波に対して最も弱く、1896年の津波では27000名以上の死者、ついで1933年には3000名以上、新たに2011年には15800名の死者と2500名の行方不明者を出した。自然の景観は常に見事ながら、今日では入江に10mを超える高さの、これまで知られていたより堂々とした防波堤が、海を遮断して地上から海を隠している。

巨大な波が止まらないような、これらのコンクリートの障壁は無駄なのではないかと疑問視する声が上げられているが、しかし磯波なら止めるのだ。公共事業の業者と政治の世界に制約されたゼネコンの関心が優先されたのだ。


消し去られた記憶
はるかに昔から、東北の住民たちは自然の脅威と共存することを身につけていた。地震津波、台風。前世紀の始めに宮沢賢治は、日本人なら誰でも知っている詩のなかで、予測しようのない人間の運命に対する打たれ強さを賞賛している。
雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ」

カテゴリーにはまらない著述家(彼の作品はいくつかフランス語にも訳されている)で、疲れを知らぬ理想の追求者である彼は、自然の怒りを決して責めることはない。1896年の地震の年に生まれ、1933年の次の地震の年に死んでいる。

3月11日の惨事は、生命や家屋を奪い去っただけではない。その土地の記憶も消し去ってしまった。同様に、モノによる復興は、時間の前と後とをつなぐ糸を結び直すため、瓦礫のなかに散らばった思い出の断片をかき集めることにもなる。たとえば、仏壇の小さな位牌に戒名が書かれていたり、行方不明者たちとの最も根本的な絆、もしくはボランティアによって集められ洗浄されて、デジタル処理された古い写真。


生活は再開された。しかし、どうしようもないものが残った。
「過去は消え去らない、離れていくだけだという気持ちが私たちにはある。ここからは、かなりのものが修正や変化することを免れ、それは硬められて、目には見えない世界の記録に永遠に登録される。」

1923年に東京と横浜を襲い、14万人の死者を出した地震の1年後に書かれたポール・クローデルの考察は、驚くほど現在にも通じている。ミシェル・ワッセルマンが「燃える街でのポール・クローデル」(2015年Honoré Champion社)のなかで促すように、当時在日フランス大使だったこの人物が書いた物語や、しかしこれのみならず、ほかにも忘れ去られたが決して文学的な資質がない訳ではない証人たちによって書かれたものも通して、この災害に引き続いた「地獄のような一週間」を追体験するならば、3月11日の惨状と死者の光景は、再現シーンとしてぞっとするものだ。1923年には猛火が人々を殺し、2011年には水害が人を殺しているものの、しかしこの2つの災害は、ほぼ1世紀の時を隔てて共鳴している。


原子力災害の遷延」
この2つの災害においては、あっさりと鎮まりかえった自然と、それが生み残した惨状とが際立って対照的だ。1923年9月に横浜に繋留したフランス郵船会社の定期船アンドレ・ルボン号の船医、シャルル・ギビエは、この災害の後に書き記している。「夏の太陽、染み入るような空、突きぬけるような青。自然は荒廃したこの広大な地の背景に、祝祭の装飾を施す。」3月11日の翌朝に見られた光景、船が道路の真ん中や建物の上に乗り上げた、ひっくり返ったこの世界とはかけ離れた、芽吹きつつある春。遠くないところに、小さな波の音が聞こえる。「月が昇りはじめた。海にかかる月は、えも言われぬ癒しの手をさし延べる」とポール・クローデルは書いている。癒しは、予期したところに常に起こるものではない。

「3-11の災害で唯一、前代未聞の局面となったのは、原子力災害の遷延である」とミシェル・ワッセルマンは指摘する。フクシマ第一原発の周辺地域では、生活は取り戻されていない。政府によって約束された未来は、閉ざされたままである。事故で破損した発電所は、コントロールされているなどというにはほど遠く、10万人の人々が未だに仮設住宅で暮らしている。ここでは、惨事はいまだに変化を続けていて、さらには腹黒い病弊にも晒されている。嘘、不透明、政治権力の高慢な姿勢... 2012年にミシェル・フェリエが強調した「世論を手なずけようとする試み」(フクシマ、ある災害の物語、Gallimard社)が続けられている。仮設住宅に住むことがもはや日常となってしまった避難民にとって、再び平静に戻ったものは何もない。
(Le Monde紙 2016年3月3日)