人間は無限に対して開かれている

ジャン・リュック・ナンシーによるハイデッガー
「人間は無限に対して開かれている」


マルティン・ハイデッガーとは誰だったのか。
彼の人格に関しては、二つの特筆すべき特徴があります。まず、彼はシュアーベン地方のカトリックの家庭に生まれており、このためその生涯を通じて、ある種のいかにも田舎びたところもある資質との間に恵まれた均衡を保ち続けました。彼は黒森峰のふもとのフライブルグに住み、「小屋」と呼んでいた山荘を黒森峰に建て、そこへ仕事をしに行きました。彼の用いる語彙は、「何処にも通じていない小径」、「存在の羊飼い」である人間、「存在の開けた場所」のように、この牧歌的な空想の産物に影響を受けています。もう一つの次元は、最もアカデミックかつ狭義の意味での大学教員としてのものであり、神学に魅せられ、22歳になるまで司祭となることを諦めなかった厳格な気質です。


彼は偉大なる著作「存在と時間」を1927年に公表します。当時彼は38歳でした。ドイツの哲学・政治学的な背景は、どのようなものでしたか。
それは第一次世界大戦ヴェルサイユ条約の後でした。ドイツ人は、現代性を前にして挫折感に苦しんでいました。1920年頃、オスヴァルド・スペングラーが「西洋の没落」を出版しましたが、これはニーチェを受け、西洋によって達成されることが約束されていたはずの人文学の理想が、没落しつつあることを明らかにしたため、大きな反響を受けました。おそらくドイツは、現代性が招いた幻滅を最初に感じた国です。19世紀が広めた偉大なる都市文明は、不安と苦渋に満ちたものでした。生得的な観念(?: l'idée de nature)が復権し始め、そこからハイデッガーは、彼の繰り返されるモチーフの1つを作ります。


存在と時間」は、すぐに偉大な書物だと認識されました。そこにある、それほど新しいものとは何でしょう。
ハイデッガーは、現象学創始者であるエドムンド・フッサールの弟子から始めています。現象学とは何か。それは、日常生活の中で世界が意識に出現するにあたって、その様式を可能な限り科学的に記述しようとする試みです。17世紀にデカルトが、「我」を出発点としました。19世紀には、ドイツ観念論が意識を主座に据えます。フッサールはその両端をひっくり返し、私たちに直接付与されるままの現実の上に、彼の思想を構築します。ハイデッガーはこの行為の継承者ではありますが、彼はこれをエスカレートさせます。立ち現れているこの世界では、もちろん私たちは物質や生きている存在を知覚するのですが、またむしろ私たちは、これらの物質があるということを知覚しているのだと彼は言います。この木が大きくて緑色で葉が茂っていると私たちが知覚するとき、同時に私たちは、記述語にも拠らず、これといった特色もないままに、端的にこの木が「ある」とも知覚しています。


「何かである」ことと、実存するという意味における「ある」この対立、それは「存在者(étant)」と「存在(Être)」との違いなのでしょうか。
その通りです。そのようなあらゆる個別の特色を備えている、これらの物質およびこれらの生きている存在、それが「存在者étant」です。しかし、物質や生きた存在があるという事実、そうそれがハイデッガーの称する「存在Être」なのです。これが彼の全ての思想の出発点です。プラトン以来、存在論(文字通りの「存在の科学」)は、存在とは、それから存在者が形作られるような「実体・実質」であるといつも考えてきました。この実体にはたくさんの名前があり、質量とか本質とか神とか「全ての物の充足理由(ライプニッツ)」であるとか、至上の存在とも呼ばれます。これらの定義にはすべて、存在を存在者、少し特異ではあるものの、しかしそれでもやはりある存在者にするという共通点があります。ハイデッガーが心を打つとすれば、それは大胆にも彼が、このような存在論形而上学的に大きな間違いをきたしていると断言することです。彼にとって、存在は実体などではなく、どこにも位置付けられるものではない。それは存在しないのです。唯一人間の実存のみが、自らが死によって終わることを知るが故に、存在を体験するのです。ハイデッガーは、人間の本質を構成していながら、それにもかかわらず常に脅かされ、常にどこかはっきりとしない、「存在に対して開かれた自由」について論じています。


それでは有名な「現存在(Dasein)」、これは何でしょう。
人間は、死の展望によって、その固有の実存、存在するという固有の行為に絶えず参加しています。この特異な経験が、彼が「現存在」と名付けるものです。


どのような点でこの経験がそれほど重要なのでしょう。
ある哲学者が、これほど明瞭なやり方で、人間の生きる意味は人間の外部にはない、彼自身のうちにあるのだと、敢えて断言するのは初めてなのです。世界のもつ本来の意味がそのうちに息づいているように想定されていた、思想を巡る天球は終わったのです。ニーチェは、「背後世界」に対する批判でその下ならしをしています。ハイデッガーは、その足跡を終わらせており、人間の生に意味を与えるもの、彼によればそれは実存を経験することなのです。しかしそれは、合理的で、理性を備え、楽観的で、落ち着いた人間であり、動物にも少し似ている人間です。これは生物学的、心理学的、社会学的に記載できるものです。要するに、それは「存在者étant」としての人間なのです。人間の生に関する実証主義者のこの知識は、適切なことで溢れていますが、それは人間の偉大さを理解することはできません。人間のもつ計り知れない意味がどれほどのものであるのかを示すのは、存在の概念のみなのです。「人間主義は、人間のもつ人間性をあまり高く評価しいない」とハイデッガーは述べています。パスカルは「人間は永遠に人間を超える」 と何やら近いことを言っています。17世紀のフランス人と20世紀のドイツ人は、人間は、実存に晒されているが故に、無限に対して、未完性に対して開かれているのだという観念を共有しています。ハイデッガーが死について語る時、それは陰鬱ではなく、完成できないものが完成されることが彼には見えるのです。


そのような観念が、なぜこのように減速してしまったのでしょうか。
その当時、ドイツとヨーロッパには強い期待がありました。現代性は裏切られ、衰退というテーマが意識を苛むようになりました。ところが、ある思想家が人間の生に意味を与えました。ベルグソンを別の観点で見れば、彼がその創造的進化や生の躍動に関する主張を表明するとき、確かに彼は同じ要請に応えているのです。シュールレアリズム、共産主義、ナチズムは、そのいずれもが人間の生に意味を与えるという欲求に見合った応答だったのです。


新しい思想は瞬く間に広がり、ドイツ全土から若い世代の哲学者がフライブルグに集まりました。
戦後のドイツ国籍の多くの偉大な哲学者は、彼の学生でした。アメリカの新保守主義創始者レオ・ストラウス、ギュンター・アンデルスはヒロシマに関する著作を行い、ヘルベルトマルクーゼの「一次元的人間」はヒッピーたちのベストセラーとなり、「責任という原理」を考察したハンス・ヨナス、エマヌエル・レヴィナスリトアニアからフランスにきた若きユダヤ人で、この師匠の授業を受けるためにフライブルグを訪れています。そしてもちろんハンナ・アレント、彼女は彼の学生でもあり教師でもありました。フランスでは、バタイユとそしてもちろんサルトルを上げなければなりません。サルトルの「存在と無」は、「存在と時間」から直接影響を受けています。彼の「人間の本質、それは実存である」という考えは、ハイデッガー作品から得られたものです。しかしハイデッガーは、それが自らの思索から生まれてきたものだということを認めず、この関係は途絶えました。ハイデッガーサルトルが対面したのも、ただ一度だけです。


ハイデッガーの著作のもう一つの重要なテーマは、科学技術に関するものです。それに関して彼が行った分析は、実際には現代性を批判する思想家たちの作品の中で大きな反応を受けました。
科学技術はいつも西洋にトラブルを起こしています。それが目指すものは、自然の活用です。ハイデガー主義者の言葉によれば、それは自然が、目的や、その手段として役立つもの、その材料の総和とされて、単純に換算されてしまうことを意味します。それはつまりは存在者(étant)の総和であって、存在はそこにはもはや場所を得られないのです。ハイデッガーから、「使用」「活用」「予測計算」といった観念が離れることはなく、それは科学技術の機能とは切り離せない精神の機能です。科学技術は、存在者の生産にすべてを投入し、「存在者」をどんどん作りますが、私たちはそれを所有できるものの、それは私たちから存在の理由を奪います。今日私たちは、ついに物質が自己制御しているようなところに至りました。グーグルのアルゴリズムを見ていただければ分かると思います。


ハイデッガーは1933年からナチ党に加盟し、フライブルグ大学の大学総長への任命に応じ、それを辞職したのはその1年後でした。どうしてこのような不首尾をしでかしたのでしょうか。
民族(?: peuple: Volk ?)という疑問を巡ってすべてが密接に絡み合っています。「民族」という言葉は、「存在と時間」の最後の部分に登場します。「現存在(Dasein)」は、彼によれば必然的にある共同体において自己実現します。別の著作で彼は、この共同体が、今や「現存在の実現」が起こりうるのだと説得されたギリシャ人たちを引き連れて、ドイツ民族のもとにたどり着いたのだとも説明しています。彼にとっては、民族の歴史があるのみで、歴史とは個人の歴史では決してありえない。「存在と時間」のなかで、 彼はドイツ民族の名を挙げてはいません。しかし、その戦争の理論的モデルはすでにあります。民族とは、戦闘中の共同体、戦闘のただ中にある共同体と定義され、そこでは戦闘で死ぬものは民族のために自己を犠牲にするのです。ところが、「存在と時間」の出版の直後に、ナチズムが勃興します。その成功によって後光を放っていたハイデッガーは、思想家として天狗になりかけてました。彼は、自分には十分な影響力があり、自分の思想が新らしい政府機関に対して受け入れられると考えていました。そこで彼は自分の大学の総長に選ばれ、大学を彼の思想に見合ったものにしたいと夢見ます。「私は、ナチズムのもつ偉大さを信頼したのだ」と彼は言っていて、彼は大真面目だったに違いないと私は思います。1933年に発表された有名な「総長講演」が、この御乱心の明らかな証拠となります。この講演には、人種差別的なものはほとんどありませんでした。あるフレーズで「商人」や「仲買人」をあげつらってはいますが、それだけです。デリダが、このフレーズをよく蒸し返してました。


先日出版された彼の未公開の「Cahiers noirs (黒ノート)」は、彼がナチであっただけではなく、反ユダヤ主義でもあったことを示しています。この3巻からなる大部の著作は、まだフランス語に訳されていませんが、あなたはこれをドイツ語で読んだとか...
これらのノートは、気の触れた人物によって書かれたみたいです。彼は絶えず、大変だ、大変だ(catastrophe)、と書いています。それを読むと、救いようがありません。彼が見込んでいた唯一の民族、それはもうドイツ人ではなく、それはナチスに身を委ねてしまったのでむしろロシア人、どこか謎めいたままでいるという理由で彼が特殊な精神性を付与しているロシア人なのです。それでも私には、彼はドイツが勝ってほしいと考えていたような気がして、もしもドイツが勝っていたら、ああいうひどいことを言い続けたのではないかと自問します。さらには、このような大量の告白の最中に突然、西洋の災厄を推進する主導者はユダヤ人である(?: avoir comme agent moteur le peuple juif)と断言しています。その理由はといえば、ユダヤ人は「計算」と「企みごと(machination)」の才に長けているからであると。彼の記載には、「シオン賢者の議定書」からそのまま持ってきたテーマが見受けられるのです。たとえ彼がそれを引用することはなかったとしても。彼は、ナチズムが反ユダヤ主義政策を広めているまさにその時に、排水溝の反ユダヤ主義(?: un antisemetisme de caniveau)をかき集めています。「水晶の夜」の時、彼が住んでいたフライブルグでは人々がジナゴーグを焼き、ユダヤ人商店のガラスを割りました。彼はそのことについて、「手記」には一言も書き残していません。その代わり彼の記載によれば、これはユダヤ人が、根から切り離された西洋文明、土地を持たない「sans sol」な西洋文明の象徴となった瞬間であると。そしてもちろん、土地を持たない人々、といえばそれはユダヤ人、彷徨えるユダヤ人のテーマというお約束の手法です。「手記」の第2巻で彼は、ユダヤ人の問題は人種の問題などではなく、存在から存在者をすっかり切り離すことができるような人間性、それに関する形而上学的な問題である(⁇)、と言っています。もちろん、このような論法は差別主義者のものです。


ここで彼の哲学と反ユダヤ主義との関係についての疑問が生じます。どんなによく見積もっても、彼の存在に関する思想は、彼が反ユダヤ主義になることを妨げていないでしょうし、最悪の場合には、その思想はそれに加担しているでしょう。いずれの場合にせよ、そんなものを読んでなんの役に立つのでしょうか。
それは何度も繰り返された質問で、私にはそれを次のように言い換えることができそうです。存在についての思想、それは歴史から離れて全く首尾一貫していることができるでしょうか。本当のところは、私にはそれがわかりませんし、よく考えてみれば、それは私にとってまさにどうでもいいことだと言い切ることもできます。私と関連のある人物、特にレヴィナスデリダを介して関係している人物でハイデッガーを読み込んでいる人物と同意見ですが、ハイデッガーは存在に関しては正当ながら、歴史に関しては適切ではないと言えそうです。 私には彼の思想が必要なのでしょうか。彼の大げさな物言いは、必要ではありません。しかし、その誇張を越えて、人は「存在する」が故に、存在という疑問に立ち戻るのです。存在する、とは、彼の思想が本来的に魂を吹き込まれたものでした。そして、この「存在する」という問題、これ以上ハイデッガー風の用語を与えたくなければ「人間は永遠に人間を超える」という問題に言い換えることができるのですが、この問題は今も開かれているように私には思われるのです。
(L'OBS誌 No.2699 2016年7月28日)