日本国天皇の遺訓 (testament)

ル・モンド社 社説 1989年に日本の帝位について以来、アキヒトが国民に直接語りかけるのはこれが2度目である。2011年3月16日に、地震、ツナミとフクシマの原子力災害をうけて、犠牲者への心の支援を表明すべく、すでに彼はテレビにて発言している。8月8日、東京にある皇居の、慎ましやかな装飾で、彼の洗練された簡素さそのままの石橋の間で、カメラに向かって座った(?)日本の君主は、その菊の玉座をナルヒト皇太子に託したいとの願いに触れた。皇室としてはこのようなメッセージは稀であれば、それが重要であることを十分に示している。

政治的に意味深すぎる「譲位」という言葉には触れなかったが、アキヒトは十分に明快で説得力があった。82歳という高齢、健康への懸念、そして課せられた職務の遵守を彼は重視しており、これが彼に引退を考えさせた。皇室を規定している1947年の憲法(la Constitution de 1947)には退位が規定されていないことを知っているので、しかし摂政制度を置く可能性に関しては、彼は念入りに、さらに繊細なタッチでもう一度、これを論駁したのだが、これは議会の気分を害したかもしれない。

ほとんど遺言といってもいいような(testamentaire)発言を行いつつ、天皇は国民の関心を集め、その絶大な人気によっていくつかのメッセージを伝えることを可能にした。一方では、憲法への愛着を再び表明したが、その憲法とは彼を「国家と国民の統合の象徴」としているものである。また一方では、平和への深い愛着をはっきりと認め、この数年間の中国や韓国、インドネシアへの訪問でも行ってきたように、戦時中の日本によって余儀なくされた苦悩に対するさまざまな痛惜の念の表明を繰り返した。1989年の彼の即位にあたって付けられた年号「平成」、それは「平和の実現」である。それに対して彼はずっと忠実である。


落ち着いたアイデンテティの拠りどころ
言葉遣いが適切で飾り気がなく、慈悲深くて職務にとても献身的で、ゆったりとした所作が幾分格式ばったこの君主に、日本人は好意的な評価をしている。30年近くになるその在位期間において、不信感に苛まれた日本のような国で、安定した平穏なイメージを彼は与え、混乱した現代の諸相における安定して落ち着いたアイデンテティの拠りどころとして、彼は重きをなしていた。また何千年にもわたる神権王国の歴史の後に、自由主義の民主国家における彼の役割である象徴としての儀礼上の機能に、彼は自らのすべての存在意義を見出すことができた。

8月8日の彼のメッセージの持つもう一つの威力は、つまりは彼の政治的影響力に起因する。とても国家主義的な首相アベ・シンゾーは、今回の主君の希望にはとまどうしかない。天皇が恣にする国民の支持に対して、彼はきちんとおじぎをしなきゃいけない。しかし、皇室典範の改正について話しあいをはじめれば、彼にとってもっとずっとだいじな憲法の書きかえが先のばしになっちゃうかもしれないことが、彼にはちゃんとわかっている。何年も前から一部の日本の政界の最も反動的な人々から応援されてきたアベ氏は、憲法や、なによりその9条を書きなおさなきゃダメなんだと思ってて、この9条のせいで、国際関係で日本軍が出動ができなくなっちゃったのである。

天皇アキヒトには、政治権力も公開討論に介入する権利も一切ないのだが、それでも、独裁的で帝国主義的な日本という大きな懐古的な図式を撹乱し、さらには妨害することもできるのだということを、彼はお見事な手際で示したのだ。
(Le Monde紙 2016年8月10日)