ラテン語、「すべての生徒に」?

古典文学の教師をしているある読者の方より、古典学を特集した本誌最新号の、中学校におけるギリシャ語とラテン語の教育に関する記事にご意見をいただいた。「唯一正しいと思われる部分は、今回の改革が中学校間に格差をもたらすだろうということです」と彼女は説明する。

2016年7-8月の第569号に発表された、中学校制度の改革や「すべての生徒にラテン語」の施しを与える人物を賞賛した記事、「ラテン語およびギリシャ語をどうするか?」を見て、私は考えました。この記事は、これまでの古典言語の教育の経緯に関してもそうですが、古典言語に対して描かれた未来に関しても、最初から最後まで誤謬ばかりです。唯一、正しいことを言っていると思われたのは、記事の導入のリード部分で、それは最後の主張にも繰り返されていましたが、この改革は中学校間に格差を作り出すであろうというものです。しかし、それ以外はといえば...

果たして、エリート主義のラテン語に対立するための「すべての生徒のラテン語」なのでしょうか。それは違います。もはやかなり以前から、ラテン語ギリシャ語もエリート層を対象とするものではなく、レベルも民族的出自もまちまちな人々によって、それは熱心に学ばれているのです。教室に来てみなければないことで、教育相やその有識者たちの言うことを鵜呑みにするだけではいけません。明らかに大臣たちは、使い古されたおざなりな表現を繰り返しているだけなのです。というのも、ずっと以前からラテン語履修者たちは、丸ごと「出来杉君」ばかりのクラスではもはやありませんし、彼らはもはやその中学校のエリートでもなく、別々のクラスに配分されながら、古典文化を身につけるため集まった生徒たちによる、たいへん好ましいモザイク集団となります。同様に以前から古典語の教師たちも、まがい物の懐古趣味から一線を画すべくその教育方法論を一新し、ギリシャ・ローマ文明と私たちの現代社会との関連を絶えず生徒たちに示しつつ、異文化総合によって新たな文化を生み出すという、真に独創的な文化の形成作用によって地中海の両側から発展した文明から、ラテン語は切り離して考えることができないということを生徒たちに説明しながら、彼らの関心をつなぎとめることができました。

もちろん、たくさんの人々にラテン語を、と言うことはできるでしょうが、それは過去のお話です。なぜなら以前は、生徒たちは自由に選択コースを選ぶことができ、彼らには意欲もあって希望者がたくさんいた。あの記事にあった数字は、現実とは非常にかけ離れています。「6年次の終わりで優秀な10%に入る生徒たち」だけがラテン語を履修し、彼らは「最も裕福な階層」に由来する、とするこのアンケートがどのように実行されたのか、見当もつきません。それどころか、改革の前には、生徒たちは自らの意思によって、5年次に週に2時間、4年次に3時間、3年次に3時間などという厳しい課程を志望し、また生徒たちによっては3年次に3時間のギリシャ語(あるいはまた、ラテン語ギリシャ語をやりたい生徒にはラテン語2時間+ギリシャ語2時間の組み合わせが行われていました)を加えていたのです。同僚たちは学級評議会でしばしばびっくりしていましたが、それはどうやっても黙っている「うんざりする生徒」(?)も、またまさに辛うじてフランス語を話すような生徒もラテン語を学んでおり、そんなにひどい状況でそこから逃げ出したりはしないからです。

では、明日から「すべての生徒のために」「ラテン語をどうするのか」?ここでは再度、 2016年9月に今回の改革によって古典語教育に押し付けられたものについて語るにとどめたいと思います。これから起こることは、今回の記事の担当者が述べたように列記するならば、それは「学際的実用教育のテーマ」と「補足的教育」になります。(もちろんこれは省の通達で使われる隠語なので、以下にこれを翻訳していきます。)ラテン語を擁護すると決めた中学校(すでにここで、全ての中学校、ではないあたりが、まずテンションが下がるところなのですが)、すなわち「学際的実用教育」で「古代言語と文化」のテーマを行うと決めた中学校では、革新的として提示されているこの教育、ここでまたテンションが下がるところではあるのですがそれは学際的云々が単一の学年、例えば私の中学校では5年次の生徒たちのみを対象とするために革新的(といっても実際には全く革新的ではなく、別名義ですでに検討され、却下されていたのですが)とされているコースを、これは全ての生徒にとってその全就学期間を通じて1学期間に1回の、一般教育と称するものの間に空けられた週に1時間のクラスになります。確かに、クラスの全員がそれを受けることができますが、あまりに毒にも薬にもならない量なので、クラスの配分はまばらに減っていくでしょう。そして、5年次では、ラテン語のオプションを選択した生徒には、補足的教育の1時間がこの時間に加わります。数えてみましょう、5年次の「学際的実用教育」による「すべての生徒」の1時間、しかし1年間で1学期だけ、しかも就学期間を通じてもこれ1回だけなのですが、それで中学校の課程全体で10時間ほどあったとしても、 ここにオプションを選択した生徒(これに関しては、教室に来て、誰が優秀なエリートとされるラテン語選択者たちなのかを見てください) には、1年間にわたり週に1時間が実質的に加わります。もう計算できてしまいましたね。ガール県のニーム市の中学校にて、地域の新聞およびモンペリエ・アカデミーの古典語教育の地方協会のためのアンケートを行っているのですが、古典語に今もなお割り振られている週あたりの時間数をまとめると、次のようになります。5年次にはラテン語1時間(以前は2時間)、4年次に2時間(以前は3時間)、3年次2時間(以前は3時間)。ケーキの上の本当に小さなサクランボみたいなところでしょうか、各施設によればギリシャ語は、今まで2もしくは3時間であったところが1時間だけです。

文化の融合を信じるものにとって、私もそうなのですが、ラテン語の教育はまさに思わぬ授かりもので、その恩恵はうまく機能していたのです。大臣は、この成果を悪しき理由によって台無しにしようとする。コミュニケーションのプロとして、そして実際に彼女はプロなのですが、彼女は嘘をつく。その嘘の通達を、「ラテン語ギリシャ語をどうするか」という記事は「鵜呑みにし」て広めている。私は、信頼の置ける雑誌のこの記事が、私たちを、といっても私の同僚たちと私ですが、愕然とさせたと申し上げたい。この執筆者は、自分の情報を検証していなければならず、公的な責任者が自分たちの政策を正当化すべく怪しい統計に腐心しているような発言を反復することには慎重であらねばならなかったと、私には思われます。彼女には現場に乗り込んできていただいて、生徒たちや、自分らの伝統に執着する懐古趣味者とは程遠い、本物の文化を奨励するために常に革新している教師たちと、話すべきだったのです。ダメな方に向かって行く人物とではなく。

教育省が無責任であることを示す最近の例としては、古典語のプログラムは最初の段階では忘れらていて、協会のプレッシャーを受けつつやっつけで公表されたことです。新学年が始まるにあたって教科書の発注がなされていたまさにその6月、ラテン語にもギリシャ語にも教科書がありませんでした。これを最後にしたいと思いますが、歴史・文化的な背景もないままに、誤謬だらけの記事の導入部に、陳腐でうわべだけのラテン語、賽は投げられた、を引用することがいったい何の役に立つのか。 それが古典の遺産を、文化の薄っぺらいメッキにするためではなかったのなら、そんなことが何の役に立つのでしょう。
(Magazine Littéraire誌サイト 2016年7月20日)