閉じた世界 対 開かれた社会

エッセイスト ガスパール・ケニッヒは大統領選第二回投票の最終候補者の間にある対立は、経済の領域を超えるものだと考えている。エマヌエル・マクロンは個人を、マリーヌ・ル・ペンは民族をその対象としている。


著しく混乱した今回の選挙戦について、最終的に明瞭な選択が現れた。ここまで人々は、今までにない盤上の隅々まで絡み合うような変化の中で、社会主義者となった国家主義者にするか保護主義を支持する社会主義者にするか、政府に批判的な人々にするか「不服従」の人々にするか、自由主義的な社会主義者にするか自由主義的な保護主義者にするか、ド・ゴール将軍的なものを称えるイデンティテールな人々にするかマーガレット・サッチャーを引き合いに出すドゴーリズムの後継者にすればいいのか、人々は失敗したと感じているかも知れない。知的なこのブイヤベースは、国家レヴェルの消化不良を引き起こした。

これからは有権者は、すべてが相反する2つのヴィジョンから冷静に選択することができる。老練な政治屋たちによって行われた、大統領選の最終討論というような官僚主義的な前哨戦からはもう程遠い。こういう政治家たちは、あまりにも以前から実際に敵対するよう支配していたのである。逆説的ながら、政党の終焉はイデオロギーの再生を伴う。一方では国家の崇拝、市場の拒絶と国境の封鎖であり、もう一方は、起業家の地位向上、国債?に対する競争やヨーロッパによる包括、グローバル化の擁護である。En marche !の政策が、個人に経済的自立の手段(教育、職業訓練、失業保険の国営化であるベーシク・インカムてきなものによる)を与えようとしているのに対して、国民前線がイメージする国家政策は統制経済の芳香を放っている。閉じた世界 対 開かれた社会 なのである。

これらの対立は、経済の領域を超越している。マリーヌ・ル・ペンは「国民」とか「国家の利益」とかがお好きだが、彼女は、政治権力が国家の等質な統一性を保証し、それを行うためにはいかなる手段でも講じるような、社会を全体化するヴィジョンに組み込まれている。これとは逆に、エマヌエル・マクロンには多元的なフランス文化という概念があり、個人の宿命には断固たる多様性があると考えていて、政治はそれを導くものの決して強制することはできない。国民前線は民族に語りかけるが、En marche !はそこに所属する個人に語りかける。国民前線は民族国家を復活させたい、En marche !は、(地域の、国家の、もしくはもちろんヨーロッパの)行政統治を、各自が市民空間で養うことができる帰属感からは切り離しながら、その帰属感の来るべき消滅を画策している(?: en acte)。それゆえエマヌエル・マクロンは、それを「国家主義者たち」に反対する「愛国者たち」に訴える。国民前線は、自由主義に恐怖を与えており、En marche !は、自由主義の経済的、社会的な側面を進歩主義の名の下に融合し、それを復権させるだろう。


失敗はできない
それゆえ、マクロン流の言説にある、時にイラっとさせるような統合主義(*oecumenisme)を、カール・ポッパーが多用する「開かれた社会」の観点においてこそ分析しなければならない。つまり、公共の価値を明確に示すことを拒否するというものである。もしエマヌエル・マクロン対立候補者たちを拍手で迎えるなら、それは彼らが生き延びることを彼が認めるということだ。「En marche ! (前進し続ける!)」とは、共有されたアイデンテティの中に自らの場所を見つけることではなく、ある方法論・流儀とそこに至る経路について意見が一致することである。ポール・リクールの助手であったエマヌエル・マクロンは、この「他者としての自己自身」(Seuil社,1990年)の著者から、アイデンテティが単一であったことなど決してなく、それは絶えず流動するものであったということを取り入れていることには疑いがない。今日彼は、私たちの時代に特徴的である流動性を、政治的な用語で説明している。彼が非難されているその曖昧さは、自由の素晴らしい手段であって、それは民主主義の来るべき変容を先取りしているのだ。さもなければ、嘘のような彼の台頭をどう説明するのだろうか、私たちの選挙制度の歴史の最も嫌な履歴書が彼にあてがわれるのだとしても。この選挙システムがもたらす成果は、しばしば優れた錬金術士なのである。

気がかりなのは、国民前線のほかにも、閉じた世界をもつものがあるということである。それは、第二回投票でのエマヌエル・マクロンへの投票を訴えることを拒否した、Sens communもしくはInsoumisの独裁への秘められた野望に認められる。階層方式によって固定し管理された1つのフランスというものに、様々なスタイルに応じて幻想を抱きつつ、今日、有権者の半数近くが、これらの反動的な動きの中に身を置いている。彼らの賛同者たちには社会的、文化的に違いがあるため、彼らの勢力は分割され、勢いは抑えられる。しかし、この不穏な闇から抜け出るためには、数々の経済的、社会的な改革に並行して、たゆまぬ観念の闘いを推し進めなければならない。今や開かれた社会には、唯一の可能性しかない。その可能性は、失敗できないのだ。

この分析が、選挙の様々な情勢の相乗作用をおそらく過大解釈していて、統治能力のような政策の領域では、彼が途方もない未知のもののままであることは、私には分かっている。しかし、しばしば思想は、それを担うものたちを乗り越えて進歩するものだ。間違っていなければフランス共和国の歴史において最も若い元首であり、私たちの国を政治のイノヴェーションの最前線に置く1人の人間に、私は「疑わしきは罰せず」の原則を適用したい。フランス人の革命家たちが1789年に左翼・右翼間の対立を作り上げ、これが近代工業化の時代をそっくり作り上げたように、En marche !は、2017年5月に、開かれたものと閉じられたものとの間にある新たな政治的矛盾を明確に掲げるかもしれず、これはデジタル化の時代のマークとなるであろう。
ガスパール・ケニッヒ

ガスパール・ケニッヒ: Science Po 哲学助教授、シンクタンクGénération Libre主宰
(Le Monde紙 2017年4月25日)