マクロニズムとは何か

マクロニズムとは何か

新たな大統領のイデオロギーは、悲観主義を排することで個人主義を舞台の中心に置こうとしている。しかし、ある種のリベラリズムの様々な逸脱についてきちんと考えなければ、社会を解放するあらゆる希望の息の根を止めかねない。

En marcheの小さな世界には、候補者や運動員はなく、そこにあるのは「ボス」と「ヘルパーズ」である。各人は、「ボトム・アップ」で指示された「プロセス」とやらに従うのであって、間違っても「トップ・ダウン」ではなく、「カンファレンス・コール」やら、「インサイダー」やら「アウトサイダー」やら、知性の「クラスター」やらについて語るのである。「我々にはすごい野心がある」とは言わず、なおさら「我が登りうる高み」とは言わず、「sky is the limit」とかいうのだ。マクロン風の言説には、産業経済界のように、アングロサクソンの隠語が雑草の如く生い茂っている。ここから、この手の経営者っぽい言葉が新たな大統領の「超リベラル」な本性を示していることが分かる。相変わらずいまだに彼は、まさにジャン=リュック・メランションとマリーヌ・ルペンが口を揃えて糾弾する「銀行員マクロン」なのである。しかし、このスローガンに事態はとどまらない。マクロンイデオロギーというものがあって、彼はそれをフランス情勢の盤上の中心に置く。それによって彼は、ブレア、クリントンシュレーダーを思い起こさせる「第三の道」の推進者となって、この大統領はトルドーやレンツィのようなものとなる。しかし、フランス的な意味での左翼の人物となることはない。

エマヌエル・マクロンの今回の運の良さは比類のないものだ。厳密には、マクロニズムの核心には個人主義がある。個人は、エネルギーを解放し自らの運命の支配者となる資質を増やさなければならないものだ。流動的で、創造的で、社会的な地位の向上。マクロンは、主体性を損ない「保護主義」を強化するような「組合主義」、「停滞」、「硬直性」を拒絶し、いつでもどこでも成功、起業、創造、「敏捷さ」を賛美し、競合、混合、解放を基盤としているアングロ・サクソングローバル化のもつ暗黙のイデオロギーを政界に向け、彼は「グローバル化」を、脅威ではなく新たな国境だと考えている。

根のない個人なのか。その出自から切り離され、自分の座標軸がない世界に投げ込まれ、単一に統合された世界という希望に宗旨がえした個人なのか。それは違う、マクロンは伝統の価値も信じていて、自らがアミアン生まれであることを称揚し、ジャンヌ・ダルクを讃え、ル・プイ・ドゥ・フー・パークも賞賛している。しかし、マクロンの考える個人は、かつて彼自身がそうしたように、自分の縄張りから離れ、広い世界に自らを投げ出す。彼は背後に「平民たち」、街や村で大きな動きからのけものにされた人々を従えているのだが、彼らは変化とか科学技術とか大海への崇拝を共有することはない。この観点からは、マクロンは反ゼムールで反ポロニーで反ファンキールクローである。社会的な地位向上とか解放とかの価値を信じる高等教育を受けた中産階級、 「自らを恃む」ことに夢を託す人物、時流に乗った個人的な野心を支持し、些細なレヴェルからあらゆる高みまで組織系統図を登る人物、理工科大学もしくはマスターシェフ、エナもしくはザ・ヴォイスを出た人物たちから、彼は気に入られている。古いフランスにおいてその形を換えた「アメリカンドリーム」である。共和国にまで広がったエラスムス精神である。

それではリベラルなのか。そうであって、そうでもない。フランスではこの言葉を、その信奉者を罵るものとして分別なく使う。さらにもっと悪いとされた人物は、攻撃的な言葉で「超リベラル」になる。たとえばそれは、企業、ヨーロッパ、猩紅熱、マクロン社会党、タラの肝油... マクロンは、この国は復興すると信じ、ポジティブでヨーロッパ的で野心的な主張をしている。彼は楽観主義に訴えかける。私たちに行き渡った悲観主義を、うなだれた悲観主義を、「哀れなアイデンティティ」という強迫観念を、ウエルベックの、オンフレの、気の滅入るようなValeurs actuellesの作品を変える人物が彼である。やはりマクロンはこの国を信じている。失業保険の国有化や納税者の80%が対象となる住民税の廃止のように、彼の改革は多くの場合ジロンド風よりはジャコバン風なのである。その対象となる納税者のために、市町村は国家に依存せざるを得ない。彼が信じるのは個人のみではなく、辞職すれば全員に適用される失業保険支給金や、難しい地区のクラスの生徒数を減らすことによっても、平等ではないまでも少なくとも公平であることは保証する国家を信じており、これはチャンスの公平さを助長する。しかし、個人に賭けるということは、個人に必要となる切り札を共同体が与えることを確保することだ。これが自家撞着でないとすれば、人々がリベラルな共和主義だと非難していたものは、この哲学だということだ。マクロンの改革を評価するなら、その任期が終わる際には公共支出が課税率と全く同様に記録的水準のままであり、福祉国家がほとんど食い荒らされず安定していて、混合経済体制のフランスがフランスのままであることに気付くのだ。そこでは国家が常に中心的役割を演じている。公的介入で希釈された個人主義である。マクロンにはミルトン・フリードマンやマーガレットサッチャーとのつながりはなく、むしろアングロサクソン進歩主義の父 ジョン・ロールズアマルティア・セン社会学者でリベラリズムと古い社会民主主義の間の「第三の道」の理論家であるアンソニー・ギデンスとの結びつきが深い。

彼の弱さともなり、彼を再評価された左翼から遠ざけるもの。その成功への賛美は、モラルにとっては良いものだが、ある明らかな限界に突き当たる。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。優等生もしくは運のいい人々が偉くなってしまえば、他者には何が起こるのか、彼らに誰が職を与えるのか、生活を楽しむのは誰なのか(?)、しかし本質的にこれらは、成功のイデオロギーが本質的に無視するものである。フランス革命後にこれを最初に目の当たりにしたのはピエール・ルルーである。権利と機会の平等は全く不十分で、個人主義の社会は、多数派である「個人たち」をしばしば犠牲とした。以上のことから彼が考案した、集団の要請を担う言葉とは、すなわち社会主義である。

社会(主義的)-自由主義的な古い「第三の道」には美徳があった。しかしその美徳は、節操なきグローバル化のはらむ欠陥のうちにもいつの間にか入り込んでいる。失業者を減らし、公共投資を増やし、競争力を増やす、ブレア、クリントンシュレーダーはこれに成功した。マクロンは、彼らの歩んだあとをたどり始める。しかし彼らはまた、格差を増大させ、賃金生活者たちを非正規雇用とし、強欲で傲慢な支配階級の権限を強固なものとしている。マクロンは、有力者と対立することはなく、彼らには改革によって永続性を、変化によって恒常性を保証する。あわよくば、彼は現代化や、改善や解放を成し遂げたりするであろう。しかし、彼は同様に距離も置いて、極度に不公平となってしまった公正さを蝕んでいる格差に対する強固な闘争を、社会主義的に丸ごと野生解放するようなあらゆるプロジェクト、つまり、社会を変革するというフランスの進歩主義者たちの展望がいまだに残った夢、社会が環境保護的な方向で変貌するというあらゆる夢を、打ち出すだろう。
(Libération紙 2017年 5月12日)