日本の皇族、三笠宮親王が逝去した

三笠宮崇仁親王は、ヒロヒトの弟で、今上天皇アキヒトの叔父であり、10月27日に逝去した。オリエント学に傾倒したこの皇室最高齢者は、日本の中国侵略を公然と批判していた。


アキヒト天皇の叔父にあたる三笠宮親王が、10月27日に100歳の年齢で死去した。彼は日本が引き起こした戦争を非難し、1945年の終戦後に導入された民主主義の価値観を、現在の天皇と同様に徹底して認めていた皇室の一員として、我々の記憶に生き続ける。

1915年12月に昭和天皇(ヒロヒト)の弟として生まれた三笠宮は、古代オリエント学に傾倒した。彼は東京大学で学び、東京芸大にて数年間教鞭をとっている。中近東文化センターの名誉総長でもあった。

大東亜戦争(1937ー1945)では帝国陸軍士官であった彼は、自国の野望からは距離を置いていた。1945年の敗戦の後、彼は中国における日本の侵略を公然と批判している。1994年のヨミウリ新聞のインタヴューにおいて、彼は皇軍の蛮行を摘発している。「ある士官が私に、新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい、といったときには強いショックを受けた。」1998年の皇居における江 沢民中国国家主席の歓迎晩餐会では、「戦争中、旧陸軍の将校として南京に駐屯したことがある。日本軍の暴行を目の当たりにし、今もなお深く恥じて気がとがめている。中国人民に謝罪したい。」と彼に告げている。


退位する権利の支持者
敗戦直後に天皇ヒロヒトの進退が問題となった際に、三笠宮は兄に、自らの名のもとで主導された戦争であれば、その責任の所在を明らかにすべく玉座を退くよう促した。側近の中にも彼の退位をよしとする声が上がっていた。ヒロヒト自身もそれを検討し、退位の前例について照会していたのだが、その決断をためらっていた。

駐日連合国軍司令官 ダグラス・マッカーサー将軍は、愛国主義者たちに配慮するならば、天皇制とヒロヒトを存続させることが占領を容易にするものと考え、天皇を戦犯の名目で捜査対象としかねないような倫理的責任は、すべて不問とする運動を起こした。そして後には、天皇はおそらく軍に拘束されていたこととされている。

1946年12月、三笠宮はこれを明治時代(1868-1912)以来のいい機会として、天皇に退位を禁じた新たな皇室典範を批判する論文を発表した。これはつまり、この8月にアキヒト天皇が退位したいと発表した時事問題でもある。アメリカ占領軍の指揮を受けて起草された憲法草案が、1946年11月に発表されて間もなく、彼は天皇の退位を容認しないことは「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」と明記した新憲法18条に反する、として「新憲法皇室典範改正法案要綱(案)」を書いている。三笠宮のこの態度表明は、2003年になって明らかにされただけである。


憲法の平和主義規定の守護者
1950年に、当時の政府が2月11日(紀元前660年にジンム天皇が建国したと推測されている)を国民の祝日にしようとした際にも、三笠宮は、いかなる歴史的研究もこれを支持していないとしてこれに反対している。

(アベ・シンゾー首相が改訂しようとしている)1947年憲法にある平和主義規定の擁護者である三笠宮は、「自らが引き起こした戦争のために、日本は世界中からの信頼を失った。これを取り戻すには、もう二度と侵略を行わないよう公式に誓約しなければならない。」と考えていた。彼はのちに「敗戦と国際軍事法廷の判決は悲劇だったが、戦前の皇室システムのような格子なき牢獄から解放されたように感じられた」と記している。

皇族ながら公共交通機関を利用し、大学の同僚たちの簡素な喜びを味わうような教師としての生活を送れて、自分は幸せであったと彼は述べていた。皇室の最高齢者として、三笠宮は長兄のヒロヒトと親しく、甥である天皇アキヒトとも親密な関係にあった。
(Le Monde紙 2016年10月31日)