創造の神秘

現代外科学の父であるアンブロワズ・パレは、自然の生み出す奇妙なものはただ神のなさることであるとして、それを疑わなかった。

こんなことを知ってるかしら?多胎出生は性交で放出された精液が過剰なために引き起こされる。ある女性たちは、2人、3人そして同様にそれ以上の子供を世に生み落とすのだけれど、でも「ペロポネソス半島では、ある女が一回の分娩で5人の子供を4回産み、その大部分が生きていた」ことが知られていたの。イタリアでは、ドロテアなる女性が、2回の分娩で20人の子供、「つまり、1回目は9人、もう1回で11人」を分娩したの。性的なことにはまさに驚くべきものが用意されていて、ヴィトリ・ル・フランソワでは、15歳のマリーという女性が、穴を跳び越そうとして、「それまで睾丸と陰茎を閉じ込め締め付けていた」靭帯を切ってしまったの。のちに彼女は「でっぷりとして、がっしりとして、かなり濃い赤髭を蓄えた」男性になったそうよ。

もしも男になった女のケースがあったとしても、代わりにその逆は起こらなくて、それは「自然は常に最も完全なものに向かい、その逆に完全なものが不完全になるようなことは目指さない」ためだとか。そこまで意表をつかなくても、半陰陽というものもあって、これは女性が「ふさわしく男と同じだけの精液」を放出すると、しっかり論理どおりに突然起こるの。ステッカー(ザクセン地方)で起こったような「牛の四本足を持ち、仔牛に似た眼と口と鼻を持った」怪物とか、もしくはボワ・ル・ロワのもう一体の「カエルの顔を持った」怪物とかを産みかねないような時期というものが妊娠にはあって、一般的なやり方としては、この期間には化け物じみたことを見たり考えたりしないよう切実に薦められているの。ただし、このような予防策が講じられるのは、男児の場合は性交後35日間、女児の場合には40日間だけで、この期間に関しては、妊娠期間と全く同様にそもそも曖昧だわ。こちらは通常は9ヶ月間と考えられてるけれど、サンスのある68歳の女性は「28年間にわたって腹に」宿していた子供を産んだことが知られていて、また「30年経ってすでに死んでる子供の骨格」を孕んでいたものもあったわ。

世界は奇怪なことに満ち溢れているの。コンスタンスでは、あるマグダレーナという女性が悪魔に孕ませられたと言って、「鉄くぎや、木やガラスや骨、石、髪の毛のかけらや槇皮や、他にもとんでもなく不思議ないくつかのもの」 が自分の腹から出るのを見ただなんて、ご存じだったかしら?ブリュッセルでは雌豚が「人間の顔に二本の足を持ち、下半身は豚」という生き物を産むのが目撃されています。アンヴェールでは、ある印刷職人の妻が「全く鳥と同じ頭を持ったまさに犬の形そのまま」の怪物を産みました。ラヴェンナの戦いの後には、「頭に一本のツノ、羽根が二枚、猛禽類のそれのような脚を一本持った怪物が生まれるのが目撃されている」。それが残念なことなのか喜ばしいことなのかは分からないけれど、通常はこれらの怪物が生きることはほとんどなくて、それは「すべての人々が凋落のうちにあることが視えてしまって、不快で憂鬱になるから」なの。

こうした奇怪なことは、いずれも人類にとどまらず動物界にも及びます。たとえば、ノルウェーの海では修道士の頭をした海の怪物が目撃されているのだし、ポーランドでは別の「鱗で覆われ、ミトラに司教の装束で司教のように振る舞う」怪物、ローマでは「5-6歳児の背丈で上半身は臍までが人間、下半身はサカナのような怪物」。「大きさは5クデで、胎生ではなく卵生の」動物がいることも知っておくべきよ。それは豚のような目で、口の外にまではみ出た長い歯、丈夫で鋭い爪、矢や槍では突き刺せないとても硬い皮膚を持っていて、それは「ワニ」なんだわに。


ここで無作為にざっと引用した、アンブロワズ・パレがその作品Des monstres et prodiges (= 怪物と珍事)で公表した仰天するような記録のうちのいくつか(そして小説家たちには魅力的な歴史のいくつか)が、図版も含めてガリマール出版によってFolioクラシック叢書として再販されようとしているのは幸運なことである。お分りいただけることと思うが、ここではルネサンスの人々の無知を上から見下すこと、いわば裁くことが問題なのではないことは明らかで、その反対にこの途方もない医師の作品を、知の歴史、精神史ともしばしば一致する知の歴史における一つの重要な基準点として据えることである。アンブロワズ・パレ(1510ー1590)は、床屋医者の店で徒弟を経験し、王立軍の「応急医」(?: urgentiste)となって、そこで王と同じように歩兵を治療したことを誇りとするマイエンヌの素朴な田舎もので、その時代で最も偉大なる臨床家となった。現代外科学の父というにふさわしく、煮え滾る油や灼けた鉄での焼灼止血に代わる、血管結紮止血の考案者であり、聖バルトロミーの惨劇を生き延び、桁外れな数の伝染病や様々な感染症(ペスト、天然痘、梅毒)を生き延び、独学で大成したもののラテン語を学んでいないが故に大学医学部からは忌み嫌われたこの人物は、その存命中に、最も名高き医師、4代にわたる王室外科典医、80歳にて亡くなる時には10人の子供の父であり、名声と尊敬を集め、その類い稀なる臨床能力とその時代の知識の代えがたい証言となる、図版満載の1000ページ規模の作品全集を残している。

「怪物と珍事」(1573年)は、フロレンスの聖アントニヌスをその起源とするある長い系譜の一部をなしている。聖アントニウスは、ジャン・ドゥルモーによれば、1474年から1479年にヴェニスにて印刷されたChronique universelle (?:世界の年代記)において化け物じみたことばかりを展開した最初の人物である。それからすぐに、怪物とか珍事とか超自然現象とか奇行とかその他の奇跡、自然史博物館の前身である骨董品の陳列室のなかで目に見える形を取っているようなそういうものには、もはや人は一顧だにしなくなる。そこでは裕福な収集家たちが、注目すべき、そして予想を超えた驚くべき画像や品物を収集しているのに。

奇怪なことに対するこの特殊な関心を理解するには、ジャン・セアールが強調したように、ルネサンスでは、奇怪なことが現在よりもやたらと広い一つの領域を構成していたことを忘れてはならず、それは、さらに新たに発見された物によって絶えず広がっていったのである。つまり、「怪物」や「奇怪な」(いわば稀な)という表現が、異常でよく分かっていないもの、を意味するのならば、例えば巨人とか小びととかのみならず、インド人とか黒人とか穴倉族とか人食い人種も、キリンやダチョウやトビウオなどと全く同様にこれに当てはめられなければならないのである。

アンブロワズ・パレのこの素晴らしい作品は、意外なことに満ち溢れた最新で輝くルネサンスという、ヴィジョンとしてはいささかありふれた背景から際立っていた、という点でまず驚くべきものである。ルネサンスに対する彼のヴィジョンとは、ますますその素顔を明らかにし始めた、のちに宗教戦争で大量殺戮を導くことになる教会分裂(shismes)によって引き裂かれていく世界が不安をもたらしている、もっと気が重いルネサンスである。不安であるからこそ、純朴でもある。「怪物と珍事」を読むと、これほど教養のある医師を、例えば「木々を根こそぎにし、山をある場所から他の場所に動かさせ、ある城を空中に持ち上げる」ことができる「悪魔に取り憑かれた人々」について言及するよう仕向けていくような、信じがたい純朴さには唖然とさせられる。

もっとも奇妙な現象が受け入れられるのは、いずれの証言も、(場所、時間とそれを目撃した人物についての確固とした出処についてだが)考慮に価するものであるからであり、つまり自然のすべての徴候の中に神の創られしものを見るというルネサンスに固有の特性を、奇妙な現象は示している。知識と信仰、それは全く一つのものである。神を疑わないこと、それは何も疑わないことである。私たちが「怪物」と呼ぶものは、アンブロワズ・パレにとっては自然の「失敗」とすることからは程遠いもので、なぜならそれは神が容認できないことをなされたことになるからである。違うのだ、怪物や奇怪な出来事は、それとは逆に神の意思を示しているのであり、常に神の永遠の創造性を示し、私たちに問いかけよう、神の示す最も意表をつくような徴候によって私たちの心を捉えよう、という意図を示しているのである。これはパレの同時代人であるモンテーニュが他の場所で強調したことだが、「私たちが「怪物」と呼ぶものは、神にとってはそうではない、神は自らの底知れない被造物のなかに、形態の無限性を見ているのだ。完全なる神智から来るものは、善きもの、常態なるもの、公正なるものだけである。しかし私たちには、そこにその関連や関係が見えない。」

それゆえ「怪物と珍事」は、奇形学のありふれた概論としてではなく、神の創られしものを賛美することの実践、神が見よと我々に与えられたおびただしいものへの感情を込めた敬意として理解されなければならない。神の創られしこの素晴らしきものには、時にはその意味づけができるものもある。(例えばアンブロワズ・パレは、怪物が存在する13の原因を厳密に列挙していき、その第1の原因は神の栄誉、2番目は神の憤怒、などであった。)しかし、その原因は、たいていの場合には近づき得ない。それゆえパレは、自然とか「その理解し得ない摂理」に助けを求めている。

さらにミシェル・ジャネルは、そのとても面白い前書きで、アンブロワズ・パレは、そもそもこれらの現象に対する実質的な類型論として、この概論を書き始めたのだが、彼が追求して完成させたものは、神のメッセージの難解さを前にお手軽な運命論のニュアンスを帯びてだらけていた分類学の混乱に対する概論なのである、と指摘している。

神秘の謎とは、世界の基本的な所与であって、またもやモンテーニュが指摘したように「私たちを産み出すこの少量の精液が、父親の肉体の形態だけではなく、その思考や気質の形質をその本質として帯びているのは、どんな奇怪なものなのだろう?」アンブロワズ・パレの論理によれば、交尾、妊娠、分娩といったこの基本的なことが、その形質から永続するのだ。そして、インポテンスのようなもっとも変化に富んだ現象における、性的な事項である。インポテンスとは、悪魔が私たちを「初夜の呪いで不能にした」際に不意に訪れるのである。

これを読んでいると(そこに負け惜しみの魂胆があるとは考えないで下さい)、アンブロワズ・パレが記載した「長すぎる陰茎をもつ男は、精液がやたらと長い経路を流れて、子宮内に受け入れられる前にすでに冷えてしまうために、生殖能力がない。」ということを知って、死すべき存在である人間の大部分は安堵するであろう。
(Le Magazine Littéraire誌 2016年10月)