アキヒト: 退位の理由

8月15日の第二次世界大戦終戦記念日のメッセージにおいて、天皇アキヒトは、アジアと太平洋の各所で100万人の死者を出した戦争に対し、「深い悔恨の念」を表明した。すでに同様な表明はなされているものの、今回は特別な意味合いを持つ悔悛である。なぜならそれは、81歳になる天皇が発する最新のメッセージの一つであるばかりではなく、この機会に彼が最近退位の意思を表明しているためで、しかしまた首相アベ・シンゾーが与える政策方針に対して彼が対照的なためでもある。この式典の中で、アベ氏も戦争の悲劇を繰り返さないという誓いを反復したが、周到にも後悔の念は繰り返さなかった。アベ氏は「未来の世代が謝罪をしなければならないようなこと」は避け、またそうすることでその責任が弱まるようにしている。

こういう歴史修正主義は、1947年憲法を修正するという意図と対をなしている。この憲法は、日本から交戦権を奪うことで日本を「去勢」している。軍事分野においても十全な主権を国家に与え、過去のページをめくってしまうことが、彼が自らに課す「歴史的な使命」になっている。ここで、こういう使命を天皇が共有していないことも想定しうる。

「国家と国民の統合の象徴」であるこの君主は、いかなる政治的権力も持たず、日本人としての市民権も、自由に発言する権利を始めとしてその大半を奪われている。それでも彼は、自らの「象徴」としての責務を十分に果たそうとしている。


「平和國家建設」
1945年当時、アキヒトは12歳で、当時の日本の小国民がいずれも繰り返して書いていたように、彼の書き初めのお習字は「平和國家建設」であった。彼と近づきになった人々によれば、この君主は、彼の父親の名の下で主導された戦争について、実にしっかりと考えており、平和主義の上で日本がまとまることの擁護者となって、アジア諸国との和解を実現すべく働きたいと願っている。1989年の即位以来、彼は自制心によって自らに負担を課し、ここから先は進入禁止なのだという標識を置くよう努めている。

彼は8月8日にお気持ちの表明というものを行い、それによって退位の希望を表明したのだが、そこで彼は、高齢化していく天皇という今回の彼の状況に対して、「個人の資格として」彼の見解を考慮してもらいたいと述べた。

彼の見解が個人的なものであっても、それでもそれは政治的な意味合いをもつ。国民からの敬愛を受け、右翼にも崇拝されていれば、皇室は政治的な争点であって、いかなる政権も今回の天皇の願望は無視できない。アキヒトは、その退位の意図によって、今やパンドラの匣を開けてしまった。退位そのものの問題に付随して、彼は避けがたい複数の問題を提起するであろう。

例えば天皇が、彼の国民には認められている基本的人権を侵害されている現状で、憲法学者ニシムラ・ヨイチが考えるように「個人の尊厳の原則」も奪われ、(社会学者ヤタベ・カズヒコの用語によれば)「社会的な無重力状態」にあり続けることは可能なのだろうか。そのうえ、男系継承を基盤とした皇室システムを、いつの日にか現代的な価値観をもった段階とする必要はないのだろうか。皇太子ナルヒトには娘が1人いるだけだが、しかし帝位に女帝というのは、首相を支えている男根崇拝論主義の右翼(la droite phallocrate)にしてみれば容認し難い。

アキヒトの退位の意図は、つまりは本流を外れたところに影響をもたらしかねず、つまりそれは憲法改定のプロジェクトを妨害することである。天皇に退位を認めることが憲法改定に与える影響は、法的にはないものの、しかしこの君主が国民の生活にしめる地位を考慮すれば、今回の彼の願望は他のすべてのプロジェクトに優先される。7月の参議院議員選挙を受けて、今やアベ氏は、憲法改定に着手するにあたって必要とされる議会の2/3の議席を揃えており、憲法改定を実行に移すために2年間の窓が開かれている。というのも、2018年の国政選挙が彼にとってまた望ましいものとなるかどうかは分からないからである。


アベ・シンゾーの修正主義に備えて
皇室典範は、単純な法律であって、議会による修正が可能である。しかし、その修正には手間がかかってしまう。右翼は分裂しており、その一部は1889年の明治憲法にある、退位を認めないという条項に執着し続けていて、天皇に退位の可能性を認めることは、「天皇ハ神聖ニシテ犯スベカラズ」という原則を再び問題とするが故に、この問題は果てしのない議論を喚ぶであろう。

1945年の敗戦直後、ヒロヒトは壊滅的な崩壊に対する責任を引き受けての引退を考えた。しかしアメリ進駐軍は、この国の掌握を容易にし革命を防ぐために、天皇を温存しようとしていた。それ故進駐軍は、象徴という新しい形をとって彼を温存した。日本が1952年にその主権を回復すると、天皇退位を主張する新たな運動が起こっっているが、これには効果がなかった。

アキヒトは、数年前から退位のことを考えており、この問題に宮内庁が取り組んでいたが、大きな進展はなかった。天皇はこの事態を進展させたかったのだろうか。それ以外にもいくつかの意図があったのだろうか。憶測は多岐にわたる。もっとも広く流布されているものは、この君主は、政府が何よりもまず皇室典範を改定すべく余儀なくされることで、アベ・シンゾーの憲法改定主義の方針を阻むべく牽制しようと努めたのだというものである。

「アキヒトは、日本の民主主義が重大な危機に見舞われているという認識を持っているのでしょう」と政治学者ヤマグチ・ジロウは考える。年齢ばかりではなくこの認識が、君主にこの方針を動かさせるよう駆立てたのかもしれない。 そして彼は、国民の心を惹きつける2回の声明を遠回しな表現を用いて行うにあたって、厳粛な月である8月、原爆による爆撃や降伏を追想する月である8月を選んだのだ。
(Le Monde紙 2016年8月23日)