ミシェル・セール: 「私たちは楽園に生きている」

ミシェル・セール: 「私たちは楽園に生きている」

9月16日から19日にかけて開催されるル・モンド フェスティバルに招かれたこの哲学者は、テロリストによる度重なる襲撃で不安となっている情勢にもかかわらず、ヨーロッパは実は前代未聞の平和な時代にあるのだと主張する。

スタンフォード大学教授であり、アカデミー・フランセーズのメンバーでもあるミシェル・セールには、ヘルメス・シリーズ(Minuit出版社 1969-1980)など数多くの哲学的なエッセーや科学史の著作がある。彼は9月16日に「Darwin, Bonaparte et le Samaritain (ダーウィンボナパルトサマリア人)」(250ページ、19ユーロ)をPommier出版より出版する。この哲学者であり科学史家は、第3回ル・モンド フェスティバルの9月17日15時30分からの招待講演者となる。


私たちは、戦争への回帰とヨーロッパの悲劇を生きているのでしょうか。
1930年にフランスの南西部で生まれた私は、スペイン戦争が生んだ難民たちや、ナチスによる統治を経験しており、またとりわけスエズ危機やアルジェリア紛争の期間には、フランス海軍士官として応召し海軍の様々な艦船に乗りました。アウシュビッツヒロシマは、私に消し去り難い痕跡を残しました。ですから、私の肉体はすべて戦争でできているようなものです。また私と同世代の人たちがいずれもそうであるように、私の魂はすべて平和でできているのです。私の年齢ともなれば、比較してみないわけにいきません。そしてそれは驚くべきものです。フランコヒトラースターリンもしくはポルポトが起こした犯罪と、私たちが生きて経験している犯罪ですが、それがもたらした死者や負傷者がずっと少ないのはどちらでしょう。私が青年時代に過ごしてきた時代と比較すれば、私たちは平和の時代を生きているのです。また敢えて言いますが、西ヨーロッパは楽園のような時代を生きているのです。

イスラムのテロによる暴力をなるべく食い止めて犠牲者を出さないようにするなんて、とんでもない。これは歴史が示す事実であって、EUはその発祥時から70年にわたる平和を経験しており、こんなことはかつてあり得なかったことで、しかもそれもトロイ戦争以来です。この観点から見れば、押し寄せるツナミのような難民たちには意味があります。地から立ち上がるべき飢えたるものたちすべてが求める行き先とはどこでしょう。それは私たちの街、ヨーロッパであって、なぜならそれは私たちが平和と繁栄のうちに生きているからです。


テロリストの暴力を前にすると、私たちがいっそう怯えて脆くなるのはなぜなのでしょう。
たとえちょっとした悲劇的な騒動、どんなに小規模な暴力の爆発でも私たちが過敏に反応してしまうのは、それはまさに、隔離された平和な小島で、大きな紛争から保護されて生きているからです。データとその統計的推移をきちんと見てみましょう。世界的にみて、死因としてテロ事件は最下位デス。殺人は減少しつつあります。喫煙や自動車事故、同様に規制のない銃器の所持に関連した犯罪は、テロ事件よりもずっと多くの死者を出しています。現代の市民がテロ事件で死亡する確率は1千万人に1人であり、かたや小惑星が落ちてきて死ぬ確率は70万人に1人なんですよ。


私たちの歴史に対する、この悲観的な展望から離れるには、どうすればいいのでしょう。
新しい歴史哲学によるのです。以前は、悲劇と死とが歴史を動かす主因でした。これがヘーゲルが否定の作業(?) と呼んだものです。紀元前1496年から紀元1861年まで、この期間に平和な時間は10%以下でした。人間の歴史とは、絶え間ない戦争の歴史でした。しかし、広島によって何かが変わりました。人類が滅亡しうることを目の当たりにしたこの残虐な大量破壊がきっかけとなって、岐路を示したのです。人類は、この西ヨーロッパという小さな島の中に、あまねく平和が行き渡った、新たな時代に入りました。私のことを、衰えていくチャンピオンたちは、(何か大切なことを忘れた時に出てくるなんて)ケア・ベアかよ、と思うでしょう。しかし、第二次世界大戦後のロベール・シューマンコンラッド・アデナウアーについても同じことが言えます。このような殺戮・破壊の後でヨーロッパに平和が広がるだなどと、誰が信じられたでしょうか。


人類の歴史について自国至上主義な視点をお持ちなのではありませんか。というのも、戦争と疾病は、まだ世界のかなりの部分で猛威を振るっているのですが。
御批判しておられることは分かりますが、心強いのは、生きるものの希望は世界のどんなところにあってもふくらむこと、そしてエボラ熱で見てきたように、感染症もしくはウイルス性疾患に対する戦いが、次第に功を奏してきていることは明らかです。


ポピュリズムBrexit、アイデンテティをめぐる緊張、現在進行中のヨーロッパの瓦解は、ヨーロッパのこの理想郷を危機に導くのでしょうか。
個別の器官を機能系の全体と取り違えてはなりません。複雑な器官であれば統一された系がなくとも生きることができます。この現在の時代のヨーロッパが雑多な寄せ集めになっていることは、当然ながら消滅の徴候ではなく、その組み立て直しの前徴なのです。戦争に対して戦争を挑むのではなく、戦争に対抗して平和を作る、戦争に対して平和を挑む知性を持たなければなりません。すでにアンケート調査がこれを示しているのですが、人々は対立よりもむしろ相互扶助を志向するのです。トマス・ホッブスの思想では、人間は人間にとって狼であるとされています。しかしながら、狼とは何か、そして同様に人間とは何かということについては、嘆かわしいことに無視することをこの箴言は示しています。狼は、合理的かつ一貫した組織の中では猟犬として編成されます。メスの狼は、とりわけ賞賛すべき教育者です。というのも、ローマ帝国はオオカミの乳で養われた若者たちによって作られたからです。私たちの生徒が学ぶリセ、これはアリストテレスギリシャではリュケイオン、「オオカミの場所」です。そうであればまさにそのとおり、したがってこう考えれば人間は人間に対してオオカミなのであって、素敵じゃないですか。


しかしながら、西洋は偉大なる物語の終末を生きている、という発想が、大雑把には必要なのではないですか。
このような発想を広めている哲学者たちは、科学であるものも、そして物語であるものも同時に無視しています。物語、人はその結末を知りません。1789年のバスチーユの奪取がどこに向かっていたのか、それは誰にも分かっていませんでした。科学は、生物種と同様に岩にも、全ての対象に日付をつけます(dater)。人が解析する微量な化石は、ある記号を構成しています。歴史は記号とともに始まるのだと言われてきました。しかし、自然が有するこれらの記号と暗号は、全てその定義に統合されなければなりません。ですから、humanitéは深い意味で記号にあふれているのです。つまりそれは、生命を持つ存在は、それが動物と同様に星であっても、歴史に記載されるのだということです。したがってhumanitéは、記号が生まれた時に始まったのではなく、ビッグバンが起こったまさにその瞬間に始まったのです。私たちの物語には、1万3千年ではなく130億年の歴史があるのです。ビッグバンの際に出現した最初の原子、窒素や炭素や水素などが私たちのhumanitéを形作るものです。いつの日か、私たちの小さな子供たちが、こういった歴史を学ぶのではないかと思っています。


歴史家たちからすれば、それ歴史と違う、科学や...と言いたいのではないでしょうか。
人間がこの惑星を破壊しかねないとすれば、それは自らの歴史を忘れたからであり、その歴史とは、自然と共同のものなのです。私たちは動物なのです。「人間じゃないもの」について語ることはやめよう、「環境」について語ることはやめよう、まるで私たちが世界の中心にでもいるかのように。


私たちは、宗教の時代は脱したと考えています。それが存続していることに関してはどのように考えますか。
いけませんよ、宗教的中立は信仰が衰退したと言うことではありません。リュミエール兄弟の哲学は、信仰が陰翳を消せると考えました。大いなる幻影(Grande illusion)です。というのは、光は火でもあるからです。この惑星を輝かせ、燃やし付ける聖なる火。このために、宗教的なことを教えなければならないのです。


この時代が悲観主義と衰退論に支配されているのは、なぜなのでしょうか。
世界の変動、とりわけデジタル化とグローバル化(mondialisation)の発展がもたらす変動は、私たちがルネサンス期を生きてきた状況と似ています。それは、口を揃えたように誰もが「昔は良かった」と語るような知性の慣習を一変させる、根本的な変革です。私はそこに、かつては支配を受けていた知識とか女性とか民衆に対する関係を変えるような新たな世界が到来することが巻き起こす反応を見ます。こういう知識人たちを見ると、モンテーニュとその世界の中心をずらしていく試みとか、ラブレーとその自分のケツを拭くべき10の方法などを、読んではみたものの怪しからんと言って理解できなかったソルボンヌの博士たちについて考えさせられます。


2012年にあなたは、この大統領選挙キャンペーンは老いぼれジジイたちの選挙だと言いました。そうですね。
もちろんです。この選挙は、寝たきり老人たちの選挙になるリスクもあるのです。現実の世界は、政治的な判断の世界とはズレているのですが、しかし私たちの政治体制は、いずれもすでに終わった時代に始まったものなのです。全てを変えなければなりません。そしてそのためには、言い方を変えればきちんと私たちの歴史を見ることです。 2015年1月11日(1月7,8,9日のシャルリ・エブドとリュペル・キャシェの襲撃の翌日)に行われたデモをみて、私は感動しました。今日の世界、若者の世界であり、憎しみも名指しするような敵対者もない世界が、ついに自己表明しているのだと思いました。この新たな世界の出現に対して、私たちは誠実でありたいものです。
ニコラ・トルゥオンによる対談と編集
(Le Monde紙 2016年9月11日)