Aux armes, citoyen ? (♫ 武器を取れ、市民よ ?)

Aux armes, citoyen ? (♫ 武器を取れ、市民よ ?)

軍の支援のために有志による予備兵を徴募することは、フランス革命当時に実行されたことである。しかし今回の構想は全員の合意を得ていない。

これは歴史のブーメラン現象ともいうべきもので、7月14日の襲撃から1週間が過ぎ、フランソワ・オランドは、第三共和国の始めに廃止された制度である国民軍、つまり憲兵隊や警察、軍の支援を視野に入れた有志市民による部隊をまた作りたいと発表しました。さて、フランス国民が7月14日の革命記念日を祝うなら、それはご存じないとしても最初の国民軍のおかげなのです。なぜならフランスの祝日が祝しているのは、皆が考えているようにバスティーユの奪取ではなく、それは連盟祭だからなのです。きちんと言うならば、1790年7月14日に全フランス国民軍が、シャン・ド・マルス(*現エッフェル塔のあるところ)に、百万人とかありえない規模で集結したことを祝しているのです。そしてバスティーユはその中心にあるのでしょうか。バスティーユはそのそばにあります。最初にできたいくつかの国民軍が、まさに火薬を見つけるために、パリ市民の力を借りてバスティーユを奪取したのです。パリ革命のために集まった有産階級や元職業軍人による義勇軍が、1789年7月13日に自発的に市庁舎を作りました。ルイ16世の要請を受けてパリ市の城門に押し寄せていた、外国の軍隊に対して闘うことが必要だったのです。そしてそれはうまくいきました。

私たちにとっては明白な、市民は武器を取って祖国を守らなければならない、という発想は、当時では驚愕すべきものでした。アンシャン・レジームのもとでは、軍人とはすなわち醒めた職業軍人であり、国家を救うためならばいつでも血を捧げるような英雄ではありません。しかしながら1791年に初めて、国家は戦争遂行能力を維持するために、有志の市民を兵籍に加えたのですが、士官たちの態度は冷たく、戦場に素人は必要としなかったのです。スパール将軍は、「ことあるごとにあなたの命令に背くボランティア兵士を従わせたいと思ったら、いつも大変な苦労になる」と愚痴を言っています。熱情家ながら軍規の遵守はしばしば拒絶し、やたらと政治的になったこの市民たちは、威圧的な態度を少しでも示す士官であれば、誰かれ構わず「貴族的だ」と糾弾する意気込みでした。ここでこの時代に糾弾するということは、軍から排除することに相当し、さらには死刑をも意味しました。

すると、さらにおぞましきことに、これらの志願兵たちは自分たちの士官を選ぶことができたのです。職業軍人たちは、太った酒飲みの連中だけを選ぶよう説得されます。武器を手にしたこういうありがちなフランス人が、共和派のイメージではビクトル・ユゴーに謳われた「革命暦2年の兵士」(Les soldats de l'an II)であり、革命に敵対する諸外国列強がフランスに押し寄せることを防いだ英雄たちなのです。現実にはもっと地味で、熟練しておらず、みすぼらしく、一斉に敵前逃亡したり、略奪や陵辱などに及んでもほとんど懲罰を受けることがありませんでした。

これは明らかに、2016年となった現在の国民軍の予備兵とは関係はありません。しかし先入観は今でもあって、元老院議員(UDI)で前国防担当大臣ジャン=マリー・ボッケルは、職業軍人たちが志願兵を受け入れるという構想に嫌悪感を示すこともやむを得ないとしていますが、それでも武装した市民が軍を支援することに対しては熱い推進派です。「長い間、職業軍人には、予備兵が抱く疑問とは別の偏見があった。彼らは予算の減額、兵舎の閉鎖などを目の当たりにせざるを得なかった。すると、そこから予備兵に与えられるポストは、どれも職業軍人が失ったポストだという発想が多少なりともあったことは確かだ。」彼の言うことを信じるならば、今日では彼らはよりオープンになっています。しかし、市民社会の一部には、たとえきちんと統率がなされるとしても、善男善女の誰にでも武器を与えるということをためらう可能性が常にあります。ジロンド県の国民議会議員で生態学者、ノエル・マメールは、「不届きな人物に武器を渡すことになれば、必然的にリスクがあります。それは、安全管理がスパイラルとなって生き地獄のようになっていく状況に市民たちを巻き込むでしょう。それは止めなければならないのです。」と断言しています。ディドロの見た夢、「どんな職業であっても、市民であれば2つの衣装を持っていたものだ。自分の身分での正装と、軍服である。」という状況は、私たちからは程遠いのです。
(L'Obs誌 2016年9月1日)