論壇 エリートのうわべばかりの痛悔

アメリカのメディアは、ドナルド・トランプの勝利の真意を見抜けなかったことで、自分たちを責めているのだ。これはフランスではよく知られてはいる言説ではあるが、そこには曖昧な部分が残る。ソルボンヌ大学政治学教授である ロイク・ブロンディオとともに分析していく。


今回のアメリカの選挙戦では、エリートが世論を読み誤ったことがまさに主因なのでしょうか。
トランプの場合、もしくはBrexitでは、怨恨の程度、体制へのこの拒否的態度に関して行われた調査の収集・入力の問題が提起されました。それゆえに方法論的な問題はあります。しかし、よりグローバルな問題は、一部の庶民階級の感情なのですが、しかしながら庶民階級は、排他的アイデンティティー問題、もしくは階級からの転落の問題、見捨てられたという問題にさほど避け難く取り憑かれているわけではなく、まだ左翼に票を投じる基盤があります。そして、世界の他の国と同様に、フランスではいたる所で、社会主義的民主主義政党がいずれも弱体化し、減退し、社会に相手にされなくなっていることを、人々は目の当たりにしています。


民主主義の機能に対する、より一層深い不信感というものはないのでしょうか。
人々は、代表制や古典的な権威に対する批判をもたらしている異なった現象を見ています。その最初の兆候は、例えばNuit debout (2016年3月のフランスにおける労働法に対する一連のデモ)であり、それはいわば民主主義的な討論をより良きものとして、言葉を繋いでいき、政治判断の過程に実際に参加する意志なのです。二番目の動きは、最初のものと一致しません。それはつまりエリート、その背信行為、その国民に対する無関心、そして経済界に対してばかりさらに有効でより強力であろうとする政府の意思を告発することです。今日、もっとも分かりやすく政治的かつ選挙による捌け口を見出したのは、この動き、つまり積極参加型のある種のポピュリズムなのです。


市民たちを懸念させているものを理解しようとする配慮は、あるべき正当なものです。しかし、それが有権者の求めるものではないものであるという口実から、すべての進歩主義的な政策目標を放棄してしまうというリスクはないのでしょうか。
国民の意図をめぐって解釈が対立してしまうことは、民主主義と一体で不可分なことです。政治の舞台に立つ人々は、国民を後ろ盾としなければならず、国民の名のもとに異なる方向から語る機会を求めなければなりません。メレンションの国民は、サルコジの国民とは異なり、メディアの国民は左翼の知識人の国民とは異なるのです。しかし、別のものもあります。左翼は、現在の流れの中で、自分たちの理想はもはや国民から求められていないのだ、と信じてそれを守ることを断念してしまい、罠に落ちてしまいました。これは、左翼の言説に対する幻滅の一つの形であって、進歩、平等、理想を断念することなのです。これらの原因は、短期的な選挙戦略よりもずっと闇が深い。それは政府内の左翼エリートが、人々を管理するビジョンや、もう革新的に変化していく可能性はないのだという発想に転向してしまったことによる結果なのです。この発想は、右翼の伝統的なテーマの延長線上にエリートを持っていき、政治的な代案を想像することができなくなります。ところで今日では、とりわけ経済的な過渡期や、経済の縮小、世界的な所得(?: le revenu universel)を巡ってはいくつかの代替えシナリオがあります。しかし、それらは社会に押し込められています。


結局は、エリートたちは国民の不安や苦悩から隔絶されているのみならず、民主主義の深まりを求める国民の要求からもかけ離れているのではないですか。
その通りです。これは、国民に対する政界の独走から生まれた、歴史的な結末です。信じがたいことですが、政党による政治システムが閉じられました。ここには、社会から出現してきた進歩主義的な観念もそこに含まれています。


私たちが今体験している痛悔においても、まだ国民を侮るところがあったりするのではないでしょうか、それが不安というものになっていたとしても。
政治的思想体系にある変わらぬものがあるのならば、それはまさに国民を侮蔑し軽視することでしょう。ジャック・ランシエールは、まさに「民主主義への嫌悪」というものを提唱しています。この嫌悪感は2つの要素によって構成されていて、つまりは国民が組織化されて行動に入った際の国民に対する恐怖、そして私がエリートの「体系の傲慢さ」(arrogance systémique)と呼んでいるものであって、彼らはとても熾烈な競争ゲームから勝ち抜けた勝利者であるがゆえに、自らのものとは異なる知性に対してもそのまま信頼しておけば良いという確信が染みついているのです。フランスではこの現象は、一見は能力主義的ながら、実際には不平等をとても助長しているその教育制度によって、さらに顕著となっています。
(L'Obs誌 No. 2715- 17/11/2016)