リウ・シャオポー
中国人作家・反体制者、2010年ノーベル平和賞受賞者


真実によって嘘のシステムを覆す、「それは7月13日に61歳にて死去した中国人反体制者リウ・シャオポーが、自らに課した使命であった。それを達成する彼の能力に対して、「国家転覆の教唆」で懲役11年という2009年の重罪判決は、体制の目からは疑うまでもなく妥当なものだった」。

2010年8月8日に獄中においてノーベル平和賞を受賞したために、リウ・シャオポーは中国当局にとって極度に厄介な象徴となった。同年に行われた授賞式典は、共産党政権にとっては一つの試練である。その妻 リウ・シャアは、授賞式のためにノルウェーオスロに行くことを許可されなかった。ノーベル賞委員会は、彼の代わりに椅子を一つ、壇上にポツンと置く。

そこでは女優リヴ・ウルマンが、彼が訴訟の際に行った申し立てから引用された長い文章を読み上げた。"私の自由を奪うこの政権には、20年前の1989年の天安門運動の際に、「6月2日のハンガーストライキについての宣言」において私が確立したことに対して、私は信念を持ち続けていると伝えていきたい。「私に敵はいない、憎悪もない。」"


容赦ないシー・ジンピン
中国政府にとって、これはまさに侮辱だが、検閲は今も徹底している。リウ・シャオポーの名前とその著作物は、何年も前から国内では目にすることがない。ノーベル平和賞授賞に直接関与するのは、中国政府としては1989年に亡命中のダライラマが授与されて以来2回目だが、中国国内におけるその影響を制限してしまうことによって、今回の機会を西側諸国とその「普遍的価値観」を告発するために利用する。

この反体制者が有罪判決を受けた後、2012年に中国共産党の指揮権をとったシー・ジンピンは、決して譲歩しなかった。リウ・シャオポーは慢性肝炎を患っていたが、中国政府は、不面目とか国際的な抗議にも関わらず、この反体制者の妻を待ち受ける運命にも関わらず、その減刑を常に拒絶した。彼の病状は悪化し、先月6月に仮釈放され瀋陽(遼寧省)の病院に移送された。

2010年からの西側諸国、NGOや人権擁護者たちからの抗議は一切顧みず、中国政府は彼の妻リウ・シアに強い圧力をかけた。監視員たちによって実質的に自宅監禁され、外部との接触を絶たれ、この詩人は鬱になった。中国の活動家たちが協力して彼女に救いの手を差し伸べた時には、彼女の唯一の兄弟が、弁護団によれば家族に報道機関に喋らせないための口実とされる商法訴訟において、投獄され重罪に科せられた。


偶像破壊的な論調
リウ・シャオポーの逮捕は2008年の終わりに行われた。その数週間前に、この文筆家で反体制者は、中国の民主化を呼びかけた声明、08憲章の起草に参加し、とりわけ反体制派の階層の署名者たちを結集していた。「転覆の扇動」に対する彼の訴訟にあたって、彼の論文6本も同様に証拠として採用されることになる。

リウ・シャオポーは1955年に、中国北東部の長春で、共産党知識人の両親の元で生まれている。彼の父親は大学教員で、後には軍のアカデミーで教えた。文化大革命(1966-1976)では、何年間か彼は学校へ行けなかった。しかし大学が再開された1977年には、彼は大学に通うことができる最初の世代となる。まずは彼が生まれた街において、そして首都では1982年に名門 北京大学(université de Pékin)に入り、1984年に北京師範大学において中国文学を教えるようになる。

ドン・シャオピンが当時始めた開放政策を受けた知的な高揚のなかで、リウ・シャオポーは、その「偶像破壊的な論調」のために文学批評の「恐るべき子供」として知られる。彼は中国の新聞や大学から引っ張りだことなった。1987年には、オスロに行って教鞭をとり、ついでニューヨークのコロンビア大学で教えた。しかし1989年に、天安門事件に促されるようにして、予想された通り彼は北京に戻る。

学生が動揺しているさなか、彼の逮捕を危惧した友人たちは、空港に彼を探しに行った。若き教授は、現地に寝泊まりしてその尊厳を守った学生たちに、すぐに合流することになる。5月19日に彼は、戒厳令の布告が引き起こした危機の解決策を交渉する、穏健派知識人の小さなグループと投合する。

その月の終わりには、彼は同志たちに「日和見のインテリを気取るのはやめる」ためハンガーストライキをするよう勧めた、と、「四君子」の一人であり、同様に学生たちの側に立ち上がったジョー・ドゥが、ル・モンド紙に語っている。

もう二人は、同じく教授のガオ・シンと、台湾の歌手ホー・ドウチェンである。「我々に敵はいない、我々の叡智と中国の民主化とを、憎悪と暴力によって損ねてはならない。」と、彼らは6月2日に出された声明に記している。「リウ・シャオポーは、これに関してその著作でたくさん語っており、それは彼の姿勢をすっかり反映してる」と、ノーベル賞授賞日に北京のジョー・ドゥが説明している。「その思想とは、党が人々の頭に刻み込んだ、常に闘い、敵を攻撃し無力にしなければならないとする、暴力の文化から隔絶しなければならないということです。」

6月3日夜から4日のうちに、この4名の交渉者が人心を収めようとする。軍と学生とを仲裁すれば、天安門広場での大量殺戮は回避されることになる、犠牲者の大部分が倒れたのは、この街の別の場所なのである。しかしながら、リウ・シャオポーは1989年6月6日に逮捕されることになる。活動組織の「黒幕」の一人だと喧伝され、北京郊外にある秦城刑務所に監禁される。彼はテレビで自己批判を行うことで1991年に釈放されるが、その中で彼は、天安門広場では死者はいなかったと断言しており、客観的にそれは正しい。

報道機関や出版からも追放され、教えることもできず、彼は、実質的に海外で出版する文筆活動で凌ぐ、稀な知識人の一人となった。1996年に、台湾の政権与党国民党と中国共産党との協力を実現する呼びかけに署名したために、彼は3年間強制労働所へ送られる。この開放政策は、実際にはさらに10年後の2005年に実施されることになる。

妻とたくさんの詩の交換をしていた監禁状態が1999年に終わると、釈放前の退屈な時間について語った2009年のあるエッセイで説明しているように、リウ・シャオポーはインターネットが「神からの中国への贈り物」であることを発見する。そのころ彼は、ファックスを探して自分の論文を海外に送信するために、北京中を自転車で走り回らなければならなかった。

「事実のなかに生きる」ことを願ったチェコの前大統領ヴァーツラフ・ハヴェルの手法に着想を得て、リウ・シャオポーはこの自由な10年の間に、共産党政権が行った歴史の改竄(歴史的工作)や情報の歪曲を非難し続けることになる。彼の分析は、中国の民主化運動の継続の中から生まれる。彼は、維権運動のような西側思想の流れにも好意を寄せる。これは、弁護士たちが主導した天賦人権の擁護運動である。


反権力の樹立
北京オリンピックが終わった2008年に、彼が理論家チャン・ツーフアとともに出した08憲章は、実際には共産党への現実的な提言である。それは、中国のように急成長している社会において、神聖不可侵である永続性の名の下に、対抗勢力を確立することである。これはもちろん、ハヴェルの77憲章から着想を得ている。この文書はまず300名の知識人によって署名され、約10000筆を集めるが、その発表の直前にリウ・シャオポーは逮捕される。

2009年のクリスマスに、懲役11年の判決が彼に下される。彼の釈放を呼びかける西側諸国への、究極の当てつけである。審判を前に彼が法廷で提示する申述において、リウ・シャオポーは、「私は、いつの日か自由が中国を支配するであろうと考える楽観主義で満ち溢れている、なぜなら、いかなる勢力も、自由でありたいと願う人間の欲求には抗いえないからだ」と言う。そして彼は、「これらの進展が、私に起こった訴訟に反映されることを願って、私はこの法廷の審判を待ち焦がれている。それは歴史の検証を受ける審判である。」
(Le Monde紙 2017年7月14日)