金子兜太

金子兜太
日本の詩人


詩の分野、特に17文字からなる短詩の俳句は、日本では今でも人々に受け入れられている表現行為であり、大手の新聞では、アマチュア俳人から毎週送られてくる句のセレクションに半ページを割いている。2月20日に埼玉県熊谷市で98歳で死去した金子兜太は、この一世紀にわたる日本の詩壇において、最も偉大な人物であった。それは彼が俳句を一新したからだけではなく、それを平和のための手段にしようと考えたからでもある。

彼は、日本の軍国主義時代に迫害された何十名もの俳人を記憶にとどめるため、記念碑(*俳句弾圧不忘の碑)の落成式を執り行わなければならなかった。そのすぐ1週間後に、死が異なる決断をもたらした。金子兜太は、あの時代を知っていた最後の詩人であった。

彼は1919年9月23日に埼玉県秩父地域(*比企郡)で生まれ、まだ高校在学中に最初の詩集を発表、ついで詩人 嶋田青峰のもとで修行した。名高い東京帝国大学で経済学を学んだ後、彼は日銀に就職する。パールハーバーの攻撃が行われた1941年に、彼の師は「進歩的思想あり」として逮捕された。彼は、自分の世代の若い詩人たちは迫害されることが避けられないのだと察した。

海軍士官として太平洋のトラック諸島に派遣された彼は、戦争の残虐さを知り、敗走していく中で、飢餓や、死守を命じられた同僚の自殺を目の当たりにする。その自伝Cet été-la, j'étais soldat (仏訳Seegan Mabesoone、今春Pippa出版より刊行)の中で彼が体験した悲劇的な経験である。敗戦後に帰国すると、彼は詩人としてのその才能を社会問題に生かし、文学において前衛的な人物となった。

進歩主義的な他の若い詩人たちとともに、金子兜太は1946年に句誌 風 を創刊し、俳句を形式的な硬直性(古典的定型においてその詩が持たなければならない四季の情緒であり、ある種の美的な日本の感性の記憶である歳時記に数え上げられた「季語」の使用)から解放することによって、これを刷新しようとしていた。詩人にとってやる気を削ぐことになってると彼が考えた硬直性である。その代わりに彼は、「もっと人間的で自由な感覚」に立ち戻るべきだと考えた。

「風 の同人たちは、いわば崩壊した人間性の意味を、俳句の進化によって取り戻す必要があるという考えを抱いていた」と、俳句に関する多くの文献の翻訳および著作があるAlain Kervernは思い起こす。「金子兜太は、俳句にさらなる息吹を与えるためには実に戦闘的だった(?)」と彼は続ける。1999年に東京で行われた第一回国際現代俳句シンポジウムにおいて、この俳人は「現代俳句には、文化のグローバル化の避けがたいプロセスに直面して、人間的な経験の多くの局面で心を打つ力がある」と宣言した。


熱烈な平和主義者
彼の弟子であり、友人で仏語訳者でもあるSeegan Mabesooneには、「深い人間性と明るい好奇心をもった、多面的な一人の男性の明晰な思い出」が残っている。彼はそれらを、1944年から1946年にかけての南太平洋の人里離れた島々における悲劇的な経験から身につけたのだ。1962年に句誌 海程を創刊した金子兜太は、その後現代俳句協会の会長となった。2010年には有名な文学賞である菊池寛賞、ついでアサイ賞(2015年)に選ばれ、彼は1987年から2018年までアサイ・シンブンで毎週出されるアサイ俳壇の撰者であった。

熱烈な平和主義者である彼は、抗議をし続けた。この10年の間にも彼は、2011年のフクシマの原発事故の後には40余りの句を作り、さらに、2015年の国家機密法の採択の際には、のちにデモにおける結集のサインとして繰り返し用いられることになるスローガン、「*アベ政治を許さない」を揮毫することによって反抗した。

50冊あまりの句集と100冊あまりの散文作品集がある金子兜太は、最も偉大とかではないとしても、現代の日本で最も偉大な詩人のひとりだと考えられている。いずれにせよ、これからも彼は平和のために闘う詩人としてあり続ける。
(Le Monde紙 訃報 2018年3月5日)