どうしてグローバル化を批判することが、ポピュリストたちに利益をもたらすのか

どうしてグローバル化を批判することが、ポピュリストたちに利益をもたらすのか

市場のグローバル化に対する自己防衛が、排他的アイデンティティ主義の威圧的な形をとるのは、グローバル化がさまざまな個人の権利の拡大と結びついているからである。



西側民主主義国家の国民のかなりの部分が、グローバリズムおよびそれに付随する商業機構のとりとめのない拡張について顧みない理由については、あらゆる、もしくはほぼあらゆることが言われています。その本質的なことは、市場の法則とは実際には最も強い者の法則なのであって、そして彼が生み出しそして煽ってくる闘いにおいて、この競争の勝者、つまりは市場で最も有利な位置をしめ、もしくは技術的、財政的、認知的に最良の技術を行使しうるいわば主役たちが課してくる、ますます大きな形となる圧力と境遇の不安定化に、あらゆる国民のあらゆる領域がさらされているのです。

しかし、この未解決な問題は、市場の略奪に対して自己防衛しようとする意図が、威圧的で保守的な形態を取るその理由にかかわっているのです。どうしてこの理由が、むしろ逆に資金の集中を妨げ、個人の境遇が不安定になることや自然破壊を集団で規制することをめざすような、しかしまたさらに同時に、個人のさまざまな自由と差異を受け入れることにもつながる仕組みをめざす、大規模な進歩主義の団結という形をとらないのでしょう。どうして左翼はウケないのでしょう。個人の境遇が不安定になることを制御しようとする意図が、どうしてイデンティテールな反応、引きこもり、差異と多元主義に対抗するナショナリズムといった形を取るのでしょうか。


自己防衛の戦略
この反応には、危惧すべき理由があります。自由主義の社会は、とりわけ最近のそのネオリベラルな発展において、個人の自由と経済的な自由は一蓮托生であるとするドグマを吹き込みました。この2つの形の自由はともに増大し、市場がグローバル化、自由化することが、女性の権利や、民族的、文化的そして性的なマイノリティーの権利といったさまざまな個人の権利のかつてない拡大を伴ってきたことには議論の余地がありません。これらのマイノリティーは、これからともに衰退し、市場の支配力に対抗する複数の異なる形の保護主義が、中絶や同性婚の権利や、ある形態をとる文化の差異や信仰の多様性の受容といった、確定的に獲得されていると人々が信じても良いさまざまな新たな自由への侵害を伴っていくことが懸念されます。

違法移民を強制退去させたり、女性の労働市場へのアクセスをより困難なものにしようとすることが、自己防衛戦略の基本原理であると思われている可能性があります。民主主義と市場とに必要不可欠な、この一蓮托生というドグマは、ここで予想外の危険な効果を生み出します。グローバリゼーションを制御しその効果を制限するために行使しうる唯一の有効な手段は民主主義である、ということを理解するには、最も商業化の影響を受けたグループにはあまりにその下地がないからです。市場から身を守るためには、彼らにとっては市場が具現化したものであるように見えるさまざまな個人的な自由を、彼らはいつでも血祭りに上げます。


イデンティテールな言説と外国人嫌い
商業化とは、さまざまな個人の自由を破壊し、商業化は利益の追求を中心とするような存在形態を個人に強要し、商業化とは物質的要求の充足以外のもののために存在する可能性であり、商業化はより「自由」であって、ますます格差が拡がっていくパートナーたちの間で争われるためにさらに多くの敗者を生み出す、万人の万人に対する闘いへと社会を変えます。しかしながら、ネオリベラリズムが個人の自由の完成された形であるとしたのは、こういう形の存在であり、商品の流通を妨げるものを自由への足枷であると明言しながら、その重い負担を今日課しているのもこれなのです。その毒とは、こういった形の自由こそが、そのマトリクスとあらゆる他者の条件とを形成するのだとする確信なのです。

不安定な境遇となりつつある社会集団は、その関心を右翼に向け、排他的アイデンティティー主義や外国人嫌いの言説に耳を傾けるのですが、それはこの社会が身を守るには、彼らが双子だと感じるこの2つの形の自由を制限する以外にはないのだと説得されているからです。経済的な自由を繁栄させるために、彼らはこの社会をいつでも犠牲にするような社会の一団と、全く人倫に悖る同盟を結ぶのです。


公平をそのスローガンとする大規模な団結なく、どうやって商業化が境遇を不安定とすることを退けるのか。


このような同盟においては、ポピュリストに扮した市場原理主義者たちは自分たちの目論見を強要し、不安定な境遇となった人々はまさにさまざまな個人的な自由を廃することによって、この状況がさらに荒廃することになる可能性があります。しかし、不安定な境遇となりつつある人々は、この2つのどちらに賭けても間違っています。民主主義によらずどうやって市場を制止するのでしょう。もしも人が差異の権利を否定し、自分よりも疎外されている者に不安定な境遇を押し付けるのであれば、このような了見で彼らはどうやって政治的団結を結ぶというのでしょう。平等、つまり権利の平等でありしかしまた生活水準の平等でもあるような平等をそのスローガンとするのでなければならない大規模な団結なくして、商業化が境遇を不安定にすることをどうやって退けるのでしょう。ある人々が、違法移民の国外退去や、反体制的な生き方をしようと試みるあらゆる人々の排斥において、最も立場の弱い人々を押しつぶす光景に自尊心の充足を覚えているのなら、そんなことでこの閉塞と凋落とを埋め合わせるに十分なのでしょうか。

Jean-Fabien Spitz パンテオンソルボンヌ大学哲学教授は、Moment républicain en France (Gallimard出版2005年)の著者
(Le Monde紙 2017年1月7日)