ハイエクもしくはネオリベラルのボルシェビスム

ハイエクもしくはネオリベラルのボルシェビスム

ネオリベラリズム」この言葉は非常によく使われたため、国民の見解としては「市場の思考」というものを半ば学術的に呼んでいると連想させるにすぎなかった。支配的となったあらゆるイデオロギーと同様に、ネオリベラリズムは、自らが永遠でしかるべくしてあるものであると主張すべく、その由来を顧みようとしない。しかしネオリベラリズムの始まりは、実際には戦後に顧みられなかった流れの一つであり、その使徒たちの小さな集団が、その後から普及に力を注いだものだ。



「経済学者以外には何者でもない経済学者がいるとすれば、それは現実的な危険ではないとしても、有害な人物である」とフリードリヒ・ハイエクは1956年に述べている。1899年にウィーンの貴族の家に生まれ、ジョン・メイナード・ケインズが市場介入主義を体現していたのと全く同じように、ハイエクネオリベラリズムを現している。いずれもこの二人は、多分野にわたる経済学のアプローチ、観念のもつ至上権、官僚的な人民への侮蔑への信念とを共有している。彼らは対立し、その主張は対立した位相をたどる。片や20世紀の始めに覇権を取っており、1944年の西側世界では、リベラリズムケインズ派の手法に有利となる形で疎外されている。

まさにこの年、ハイエクはよく売れたその小冊子『従属への道』において、社会的正義に基づく政策は、すべてナチズムもしくは共産主義に通ずるのだと断言する。彼にとって社会とは、彼はこの社会という言葉を嫌ったのだが、社会的階級とは連動せず、(需要、供給といった)集計量をめぐる経済と連動するものでもなく、個人の行動の合理性を基盤とするもので、それは市場の「自律的な秩序」の中で調和する。

この概念にける国家は、再配分の役割ではなく、市場によってはしっかり保障されないサービス(治安、インフラ、統計?、最低所得)を生み出すものとしての役割を果たす。それは、権力を分散することによって自由を保証するのである。「それは市場、過去に一つの文明が発展することを可能とし、それなしでは発展することができなかった市場の非人称的な力に、人間が服従することである。理解しうる以上に大きな何かを作り上げる際に私たちが貢献するのは、この日常的な服従によってなのである。」ヨーロッパ諸国の政府が、国民からの圧力を受け社会保障体制を構築する際に言明された表明であって、リベラルから見るとこれらの原則は馬鹿げており現実離れして見える。

しかし、ハイエクは粘り強い。彼は、「たいてい新しい思想は、最初に明確にされてから少なくとも一世代は、政治的な行動に影響を及ぼそうとしない 」と記す。社会的な勢力やそれを好都合とする政策があればそれらが実施されることとなり、その拡散が展開される。1938年にハイエクは、伝統的リベラリズムの破綻と 統制経済政策の成功という文脈のなかでリベラルの思想を作り直そうとする人物を集めた、ウォルター・リップマンの討論会に参加している。戦後彼は、ボルシェビキが行った制圧を思わせるような、知的な制圧戦略を遂行する。えり抜かれ、甘い妥協の囁きに動じない、当座は容認しがたい思想でも長期的にみればその成功を確信しているような有力な個人からなる小グループを統合する。


メディアにおける影響
1947年にハイエクが設立したのは、政党ではなく国際的な学術団体、ソシエテ・モンペルランである。ついでアメリカに渡り、シカゴで教職に就いた際に1955年に作られたイギリスのシンクタンク、インステテュート・オブ・エコノミック・アフェールス。彼は、「私たちの目的は、与えられた政策プログラムに好意的で、大衆の支持を得られるような解決法を見つけることではなく、その反対に最良の精神からの支持を確実なものとすることです」と説く。

この点において、ネオリベラルの使命とは、共産主義者のそれに比してさほど困難でないことが明らかとなった。それは経済的な秩序を覆すことではなく、経済的な秩序は常に私有財産に基づいていて、そこで社会民主主義の撓みを矯正することを意味する。ハイエクが1960年に『自由の条件』において表明し、経済学者ジル・ドスタレーによって要約されたロードマップは、その時代としてもこの時点からずっと野心的である。「社会保障プログラムの規制緩和、民営化、緊縮と単純化、失業対策の縮小、住宅助成や賃貸料を管理するプログラムの廃止、農業における価格と生産高の統制、労働組合の代理権の削減」。

彼らの思想は報道、教育機関、高級官僚、経営者の中で煮詰められた。1970年代のちょうど中頃、戦後の社会的妥協が停滞したために、彼の立場は有利なものとなった。ハイエクは1974年に「ノーベル平和賞」を受賞し、翌年にはマーガレット・サッチャーという名のイギリス保守政党若い女性指導者が、討論会で一冊の彼の著書(*自由の条件)を振りかざすして説く、「これが私たちが信じるものだ」と。
(Le Monde Diplomatique紙 2016年9月)