オンフレ:「フランスは1992年に死んだ」

オンフレ:「フランスは1992年に死んだ」


L'EXPRESS誌 - エマヌエル・マクロンの統治の始まりを書き綴ったあなたの新著は、彼が政権についたまさに1周年記念日の時点での、政治的な服喪期間の1つの形態を自分なりに表しているのでしょうか。私たちを操っている、反民主主義的で世間に背を向けた態度だけが支配的となる、政治後の(post-politique)時代に、私たちは入ったのでしょうか。

ミシェル・オンフレ- それが死んでしまったのは古い話で、私は長い間喪に服しました。金銭、つまりはメディアや世論を意のままとしうる非常に専制的な措置、つまりは私がマーストリヒト国家と名付けたものによって運営されるリベラルな超国家性に有利となる形で、私たちの主権を放棄させた1992年のマーストリヒト条約の日に、フランスは死んだのです。逆説的に、マーストリヒト国家は、イデオロギー、武力、強制、威圧、抵抗思想の萎縮によって、リベラリズム(つまり市場が支配的である体制と私が定義したもの)を強要するのです。

エピキュロスに始まり、ついでホッブス、さらにルソーにおける、社会契約の原則は単純です。つまり、その契約と不可分であるその放棄は、そこでヒトが放棄する利益を上回るものを生み出すのです。ホッブスにとっては、国家によって保証され、その国家によって与えられる総員の集団安全保障に有利となるよう、ヒトはその同胞を損ねる各自の自由を断念するのです。それがだめで、約束されたもの(生活水準の向上、完全雇用、失業の終了、国民同士の友愛、戦争の終結を思い出しましょう)が手に入らないならば、ヒトにはそこから手を引く権利があるのです。

私たちには、フランスが放棄したものがよく分かります。通貨-これは行動する権限(*d'agir)、主権-これはその空間にあるヒトと財との往来を統制する権限、自由-これは民族国家を守り、そこから最初の地平となる領域を作る(?: en font le premier horizon)権限。それは何にとって有利となるためだったのでしょうか。市場、つまりは金銭に与えられた全面的な権限に対して有利となるためであり、つまりは全面化した規制緩和、低い水準で社会を平坦化すること、万人の万人に対する闘い、私たちの新植民地主義に関連したイスラム主義のテロを含めた社会的闘争、化け物じみた貧困化、大規模な無教養化、人間をダメにする娯楽社会(テレビ、シリーズものの番組、映画、テレビゲーム、スポーツ、ゴシップ紙...)にとって有利となるためです。

マクロンは、この政策プロジェクトに属する人物です。そして、彼の誕生日にそのプロジェクトによって示された、メディア機構の無骨さそのもののようなシリル・アヌナと共和国大統領の結託が、その証拠です。


政治的なリベラリズムは、あなたがそれに同意するにせよしないにせよ、今日では本質的には、マクロン主義者たちの集団によっては実現されてはいないのではないですか。

はい、もちろん、マクロンはこのマーストリヒト国家に忠誠を誓った人物です。彼はド・ゴール将軍を持ち出すのに有利な立場にあり、彼は、その生涯にわたってド・ゴールへの嫌悪を唯一の明らかな方針としたミッテランの直系の後継者です。ミッテランは、子供の頃のカグール団への共感からエリゼ宮におけるジャン・ドルメソンとの最後の昼食まで、 彼の身につけていた唯一の理念とは、つまり自分自身でした。

自らのプロフィール写真を撮るために並べたプレイアード叢書の2人目の著者としてスタンダールを選んだマクロンなのですが、ミッテランサヨクであることを1983年に放棄してから、ヨーロッパがド・ゴール主義のフランスを決定的に破壊するであろうことを世間に背を向けるような態度で知っていて「一つのヨーロッパ」というものに惚れ込んでおり、マクロンは自分がそのミッテランのふさわしい後継者であるともう一度示すのです。闘斧のシンボルを戴いたこの人物ミッテランは、民族国家をマーストリッヒの企業集団に売り渡すことで、歴史に対して大成功を収めました。彼はド・ゴールの6月18日演説の業績を葬ったのです。


「Happy Birthday Mister President」の意味を込めて、フランス人はどう反応しなければならないとあなたは思いますか。もしも祝うものが何もなければ、その時フランスの政治的希望はどのようなものなのでしょう、つまりは棄権主義を決め込むのでしょうか。

フランス人たちは、マーストリヒト国家による措置が本質的に全体主義的であり、それがイデオロギーの閉塞を確実なものとすることで、これからフランス人がこのインチキな市場から脱していくことを妨げる、ということをますますさらにしっかりと理解しています。彼らが反対デモを行い、ファシストナチス国粋主義者、ヴィシー主義、ペタン主義者だと思われるとしても、もしくは2005年のヨーロッパ条約に関する国民投票の際のように、彼らが反対を表明することに成功したとしても、しかしその時には人々は自分たちの票をゴミ箱に捨てるのです。

今回の大統領選の2回の投票において、マクロンがこれ見よがしにオラドール村、ついでショア記念館に行ったことを覚えていますか。フランス人たちに、もはや選択肢は、彼すなわちマーストリヒト主義と、マリーヌ・ルペンすなわち当時の反マーストリヒト主義の間にしかないのだ、つまりはシャルル・ド=ゴールアドルフ・ヒトラーなのだと言うために。


過激主義者に利することなくマクロン的「ボナパルト主義」に対抗するにはどうすればいいのでしょうか。

マーストリヒト体制に味方しない者は、すなわちそれに対抗するものなのだと信じ込ませることが、マーストリヒト体制の実に危険な点です。その一味は、彼らに反対する人々をポピュリスト、人種差別主義者、外国人排除主義者、極右の人物であるとするために、納税者から資金供給されている国営や民間のメディアを大規模に使用します。つまり、RebatetBrasillachの同調者なのです。こういった人々から侮辱されることを心配する必要はありません。むしろまさにそれを求め、望まなければならないので、それは私たちがまさに正しいことをしていることの証拠なのです。毒ヘビが噛み付くのは、自分が危険な状態にいる時だけなのです。


あなたは、常にある政治的な教訓ととともにありました。ジャン・ジオノがマキャベリ君主論の前書きでまとめていることで、「常に権力は、もしも被統治者たちが権力を持つなら彼らが統治するであろうように統治する」。現在におけるマクロニズムの意味は、この政治的な箴言を分かりやすく示しているのですか。
はい、それは絶対自由主義的な社会主義の大きな教訓であって、私にとっても教訓です。私はこのジオノのフレーズを、その簡潔さと適切さに感心しながら、20代の頃に読んでいます。私は、ある理想のために全てを放棄して以来、その教訓と共にあります。つまり、もしも私が政治的に同意することができたのなら、それは責任の倫理を考慮するので私が後悔することはないということですので、自らが良しとするものには決して打ち込んでいない、それは信念の倫理です(?)。それ以来私としては、本来の責任の倫理とは、これまで以上に信念の倫理と妥協しないことだと信じています。


もしもエマヌエル・マクロンとジャン=リュック・メランションが、根本において同じコインの裏表なのだとすれば、フランスにとって可能な政治家の選択肢としてはどのようなものが残っているのでしょうか。
それはフランス人民、彼らだけです。権力者を追い払おうとする人々・デガジェ主義者たち(dégagistes)をもデガジェすることです。メランション、彼は20年近く社会党上院議員であり、マーストリヒト条約に賛成票を投じているのですが、彼が希望だと考えられているとか、かなりびっくりです。救世主的な人物による移行期なしで、権力が議会において直接市民によって行使されることを前提とした、ジロンド派による自主管理を、私は擁護します。


フランソワ・オランドL'Exercice du pouvoirの大成功が示していると思われるように、社会-民主主義の一派の復活はあると思いますか、マクロン主義者が左翼から奪おうとしているイデオロギー空間は今のところとても狭いのですが。
社会-民主主義は、左翼として発言し右翼として統治する、それが特徴です。社会-民主主義の哲学的な実践によって、左翼の有権者は機能停止しており、それは枝に止まった鳥を魔法にかける蛇のよう、資本主義は、社会-民主主義が権力にある時に、さらにより容赦ないことが判明しうるのです。1984年にリベラシオン紙は「経済危機万歳」(Vive la crise !)というタイトルを付けました。同じものをタイトルにすることは、ル・フィガロ紙には決してできませんでした。イヴ・モンタンが、ベルナール=アンリ・レヴィが、シモーヌ・シニョレが、アンヌ・サンクレールや他には当時のローラン・ジョフランが、ジスカール・デスタンよりも右寄りの発言をしている時、この取り巻きが左翼を自称することを口実として、「左翼」はそのまま流されました。政治的には、マクロンとは、闘斧の痕跡はないもののミッテランであり、もしくはスクーターはないもののオランドなのです。サルコジも加えることができますよ、Duracellの電池は入っていませんが。


右翼の共和党員がずっと鳴りを潜めているのはなぜでしょう。
それは私にとって大きな謎なのです。一つの仮説をしてみます。右翼はその跡を継ぐべきだったサルコジの喪に服している、それは大変な仕事です。彼よりもフィヨン、人々は彼が二枚舌だと後から分かるのですが、そのフィヨンを選ぶべくサルコジを道端の排水溝に捨てた右翼は、右翼に仕事を作っていたこの王様がいればうまくいくのに、と結局は考えながら、切り落とされた1個の頭を前にしているのです。


あなたはマーストリヒトのヨーロッパを告発しています。そうだとすると、しかしマーストリヒトによって押し付けられたヨーロッパ以外には選択肢はないのでしょうか。
もちろんありますよ、全ての人々がヨーロッパ人なので。ヨーロッパ人でない人はいますか。リベラルなヨーロッパに反対する人がいるのなら、しかるにヨーロッパはリベラルなのだから、その人物はヨーロッパに反対しているのだ、と信じ込ませていたことが、マーストリヒト主義者たちの詭弁のもう一つの成果です。尊敬に値するそして尊敬されている民族国家同士による一つのヨーロッパ、それがその唯一の解決法です。それが、一方的に有利な、つまりは専制的な契約というリベラルな解決法に対する、契約者双方が義務を負うべき、すなわち共和主義の契約の自由な解決法です。


エマヌエル・マクロンは、近頃特にTF1やBFM TVにおいて、フランスの周辺領域を諦めないことを強調しました。この問題に対して彼を信頼していますか。
郊外地域にはここ数十年間、公的な資金が大量に注ぎ込まれており、その結果は私たちが知っているとおりです。ポスト・ジャコバン派のそして真にジロンド派の政治的現実の結果として立て直すべき郊外があるのではなく、破壊すべき郊外があるのです。ジロンド派は、農村での居住に有利となるように都市後方域を立て直すにあたって、地方と田園地帯をずっと考慮にいれています。

着実に。

マクロンには、都市政策も、それに文化政策もありません。テロリズムに対しても同様です。彼は手の施しようのない状況なのに急場拵えをしていて、市場はこのジャンルの問題を規制するためにその位置に彼を充てたのではないのです。


拡がった不満が、フランス国鉄の改革を巡って結集すると思いますか。
分かりません。私が知っているのは、不満が付け加わり、その全てが火薬の山となって機能することです。小さな火花が起きないほど、後からこの件は全てを燃やすこととなるでしょう。


この社会的な緊張、特にフランス国鉄の(?: à la SNCF)部分ストライキの情勢においては、フランスにおける公共サービスはすでにずっと以前から死んでいるのではないかと思われますか。フランス人のための公的サービスの日常的な品位を維持するために必要となる条件、それは決定的に失われたのでしょうか。
そこで公的サービスが支配的であるといまだに信じているのは、労働組合だけですよ。それは空想です。それは、権限が会計係によって占有されている、郵便、病院、公立教育についても同様です。その全てにとってサービスの利用者はどうでもいいことで、納税者からの金銭によってどんどん下請けが増え続けるような仕事場を守っている経営者たちに対して、自分たちの社会的地位を守っている組合活動家たち、彼らは市民など気にもとめていません。


現在の青少年について、あなたはどのように見極めていますか。1年前には若者たちはかなり大規模かつ熱狂的な方法でマクロン候補を支持していましたが、今彼らはデモに参加し大学を封鎖しています。彼らは手のひらを返すようです。あなたから見れば、彼らは政治的に未熟だということですか。
このイデオロギーを、かまわずにあらゆる支援を動員してでも促進するために、学校によって増幅されたメディアのポリコレが作った若者なのです。私は教育大臣の業績を評価しますが、マーストリヒト主義のヨーロッパを宣伝することが、学校によって掲げられた目標なのであれば失望させられます。 この世代は、マーストリヒト国家の「合意形成」部門によって獲得されたプロダクト・マーケティングなのです(?)。その腐敗の極みは、それ以後このマーストリヒト国家が、もちろん彼らの思想に取って代わるあらゆる思想をターゲットとしつつ、誤った情報として与えられそうなものを学ぶために学校に行くよう洗脳するメディアに求めることなので(?) 。誤った情報を他者に与えるコツを学ぶと主張しつつ、誤った情報を与える、私たちはオーウェルの時代にいるのです。


以前にもまして、あなたは彼の知的な敵対者の筆頭なのでしょうか。
いいえ。この件においては表彰台も順位もありませんよ。私は私の仕事をしているのです。
Zéro de conduite, par Michel Onfray (Ed. de L'Observatoire, 384 pages, 19 euros).
(L'Express誌サイト 2018年5月29日)