社説 幸福を殺すこと

彼らの目的はただ一つ、自由を圧殺することだ。殺人者の照準の中には400人ほどの人間、死者や負傷者が映っていたが、彼らに対して私たちは、魂そのものから悲嘆にくれる。しかし、また理念もある。自由という理念である。「悪行と堕落の首都」、「偶像崇拝」で溢れた頽廃の街であるパリを呪っていた「イスラム国」の妄想気味の主張には、何らの疑念もなかった。

若者の多い雑多な地区で、フランスで最恐のテロ殺戮事件とすべく、バーやレストラン、劇場などの「綿密に選択された」場所を襲撃しながら、殺人的なイスラム教は、自らの意志に、自らの嗜好に、自らの心に従って生きるという自由を圧殺したかったのだ。音楽を聴く自由、夜を過ごす自由、愛する自由、考える自由、そして平和の中に生きる自由を殺したかったのだ。つい最近までカブールで、そして現在はラッカで彼が成し遂げたように。彼は幸福を潰したかったのだ。殺人者の照準には、伝統と偏見からみれば狂信者を耐えがたくさせる、ベビーブーマーたちの子供の確固とした自立性を持つ世代が映っていた。殺人者の照準には、つまり共和国のある理念が映っていたのだ。アイデンティティについてきちんと考えることができない人たちは、なんだかよく分からない文明の戦争を持ち出すであろうが、それはムスリムの移民や少数者が犯罪者であるとするため、そして彼らから粗末な選挙特典を引き上げるためである。彼らは、標的にされたのは西洋文明だったと言うであろう。彼らは大雑把に、イスラムキリスト教世界を襲撃した、ムスリム世界がヨーロッパとフランスに脅威を与えたのだとほのめかすであろう。これは有害な侮蔑的言動である。自由は全ての人との対話を求め、イスラムの地にある人々にもそれは同様である。イスラム国が「十字軍」と呼ぶものへの攻撃の以前は、同様の残虐な手段によって、彼らは現代性に憧れるイスラム教徒たちを服従させようとしていた。殺人者の照準には、カトリック無宗教者も、アラブ人もガリア人も、信仰深き人も浅い人も映っていなかった。そこに映っていたのは市民だけであった。出自はさまざまながら、単純な同じ信念、私たちが自らの深層で信じるものによって団結した市民である。自由への愛のみが、自由であり続けることを可能とする。反撃を導くものは、この信念でなければならない。自由を廃止すること、特別法の提示、そんなものはすでに敗れ去っているのだ。フランス国は、全ての必要な法的措置を実行に移す手配を整えており、フランスは警察および軍の勇気と権限に期待することが可能で、もし必要と判断されるなら、正当な言葉を発することができる。あるデマゴーグたちは、行政当局を、非妥協的保存主義的で生ぬるい(laxisme)と非難している。しかし、イスラム主義者による今回の虐殺の根本にあったものは、弛緩主義ではなく強硬さである。それは不干渉もしくは放置していたことではなく、マリやシリアの現地においてテロリズムと直面した意志である。市民においては、彼らの団結、冷静さ、警戒心が、恐ろしい襲撃に対して最良の反撃を生むであろう。全ての抑止をないがしろにするような狂信的な自爆による無差別テロ行為が、フランスにも出現したことによって、治安部隊が予め全ての危険に対処することは不可能である。

今回の結論は、その現実性の恐ろしさによって強い印象を与える。フランス人は、これからはテロリズムとともに生きなければならないのである。ローレン・ウォーキエやエリック・シオティのような無責任な声が奨めるように、この原則を認めようとしないということは、現実的根拠のない方法であろうし、殺人者たちに最初の勝利を与えるであろう。
我々の価値観に背を向けること、それはテロリストたちの前から逃亡を始めることである。
(リベラシオン紙 2015年11月14日)