震災から10年後

震災から10年後

福島から移住した人々のトラウマの10年間


2011年3月11日、強い地震が太平洋岸に津波を引き起こし原発地区を襲った。放射能を心配して、半数近くの避難住民がいまだに帰還していない。

 


桜の苗木の間に、日本の冬の寒さで枯れた草地に向かった、小さな灰色の木材のベンチが置かれている。楽慎一郎は滅多に笑わない70代の男性で、まだ10年前には1500坪の敷地に彼の家があったその場所に、このベンチを作った。「伝統的な屋敷だった。そこで立派な結婚式を挙げた。」福島県南相馬市小高地区の沿岸地帯、南側は国見山の影となり東側には太平洋が広がる川原田にある建物の中で、孫たちは両親や祖父母と賑やかに暮らしていた。


2011年3月11日の地震津波原子力災害は全てをひっくり返した。津波が家屋をさらった。さらに15km南にある福島第一原発が爆発し放射性沈降物で農地を汚染した。原子力発電所から20km圏内に居住する8万人、うち小高地区の1万4千名の住民と同様に、楽一家も避難しなければならなかった。その10年後、楽さんは生まれた場所に戻るという問題に直面し、避難民のジレンマを象徴している。「ご先祖たちの墓、受け継がれてきた土地」のことをどうしても考えてしまう。彼は帰還を選んだ。川原田の自分のベンチに座って、彼は近所にあったものを描く。「ここには家が一軒あった、あそこには田んぼ。あそこで、津波に呑まれて何人かが死んだ。」


日本の東側沿岸に2.2500名の死者と生存不明者を出した災害で、南相馬では約700名が命を落とした。今日では海は灰色のコンクリートの長大な堤防の後ろに潜んでいる。川原田については、この高齢の男性のベンチ、流された家屋のいくつかの残骸、2014年に熊本のある企業によって新たに復旧された町の小さな神社があるだけである。楽氏はそこから数キロメートル離れた小高駅のそばで暮らしている。この地区は除染、つまり被曝量を年間1 mSv(フランス政府が国民に勧告する被曝量と同値)まで下げるべく、地表から土壌を5 cm削り、樹木を剪定し、建物を高圧洗浄する処置の恩恵を受けることができた。


惨劇の前の思い出

2016年夏、政府はこの地区の居住禁止を解除した。住居を失って再居住を希望していた生存者たちのために住宅が建てられた。楽さんは2018年に新築の家に入居した。「ほんとに小さくて」申しわけ程度に家具が据え付けられていた。あの惨劇が起こる前の思い出が青白い壁を彩った。にこやかに笑う人々の写真がそこにはあった。「自衛隊員が瓦礫の中から回収してくれた写真です。」さらにこのプレハブの仮設住宅で過ぎた6年の歳月を、いくつかのネガが刻みつけている。楽伸一郎は、すぐそばのささやかな畑で毎日野菜を栽培している。「東大の科学者たちがこの土壌を調べてて、全てうまくいっていると言ってます。」彼はお隣の80歳でお元気だが視力の衰えてきたタマガワ・トメコさんの面倒をみている。「地震で家が壊れた。津波で私が生まれる時に見ていてくれた人々も流された。もう生まれた場所とは様変わりしてしまったみたいだ。でもここには知り合いたちがいるし息子所帯に迷惑はかけたくない。仙台で一緒に暮らそうと言ってくれたんだよ」、仙台は南相馬の北東80kmにある大都市である。


小高地区の1万4千人の住民のうち、帰還を選択したのは3500名だけである。その大半が高齢者である。安全だと説得する政府の努力にも関わらず、若い人たちが生まれ育った町に戻ることを断念した直感的な問題点は放射能汚染への恐怖だが、それでも楽さんやタマガワさんのように、生まれ故郷への愛着が彼らを動かした。「避難区域以外では被曝量は0,12 μSv/Hを超えてはいけないのに、2011年には2,74だった。今では、私たちは世界の大都市と同じ水準になった」と2月の初めに福島県知事内堀雅雄は喜んだ。オリンピック聖火リレーは、今のところ3月25日にJ-Village原発の南20kmにある総合スポーツ施設を出発する予定のままである。2013年に前首相シンゾ・アベは、今回の災害は「アンダー・コントロール」の状態だと断言した。


こうした発言は、汚染地域の住民たちには通用しなかった。避難民全体のうち、36.200名が今でも別の土地で暮らしている。この数字は減少しているかもしれないが、福島県は2020年中に避難者をゼロにしようとしており、2017年には避難者の家賃助成が打ち切られたため、原子力資料情報室によれば「多くの避難者は自らの意に反して帰還」している。2020年の年末に行われた共同通信による調査では、36.200名のうち65%が帰還を拒否している。その約半数は放射能汚染を危惧している。放射能事故が引き起こした心的外傷は持続しているのだ。「2011年には私たちは未知のものの中でもがいていました。それは今日でも同じで、きちんと行動できたのかどうか判断することは難しいようです」と原発から60kmにある福島市の住民ハツザワ・トシオは分析している。彼の妻トモコは、「生まれ故郷の空気、水、土壌」を失うこととなった放射能汚染で恐怖に陥り、北海道に数ヶ月間避難することになった。放射性汚染物質を危惧しながらも、彼女はその数ヶ月後に戻ってきた。「惨劇からはある程度距離を置」いたと言うが、不安な点が一つ残っている。「融解した核燃料が原子炉の底にずっと残っているんです。」


小高地区ではある認識が共有されている。「ここにはいまだに放射能ホットスポットがいくつもあって、東電も政府も信頼できない」と、小高にあるただ一軒の旅館 双葉屋の女将 小林友子は説明する。テレビでは、公共放送のんhkが地方のスタジオ放送に切り替わると、天気予報の後に県内の放射能レベルを並べてはいるのだが。にこやかによく喋る小林さんは、曽祖父母たちが戦前に創り上げた宿泊施設を再開するために夫や息子たちと帰還した。宿泊業のほかに、この60代の女性は放射能測定調査にも参加している。この地区で再生した暮らしを見ることが大切だと思っている。「戻ってきた人たちは少ないけれど、でもいるのです。双葉町大隈町には一人もいない。それは悲しいことです。」


ガタガタついた看板

この2つの町は、小高地区の南の数キロメートルのところにあり、20km区域で封鎖解除されていない最後の町である。国道6号線のような何本かの幹線道路だけがここを通っており、除染や損傷した原発の解体を請け負った企業の車輌でごった返している。原発の解体は、2051年に至るまで21兆5千億円とされる経費で公的に計画された作業である。


この原発の最寄りの大野駅で、原発作業員たちが何人か降りる。電子表示盤が放射線量0,3 μSvを示している。少し歩けば商店街と、灯りが消えてガタガタいっているその看板が、立ち入りを遮断する重い鉄のフェンスの後ろで沈黙のなかに封じ込められている。「今でも放射能は怖いのです」双葉町に隣接する葛尾で生まれ育ったがっしりとした50代男性 カンノ・ヒロシはこう認めている。かつて彼は稲作と牧牛をしており、松で覆われた山々に囲まれたこの谷間の農地を支配していた、石造りの立派な2羽の鷹が載った門柱があったような生家を離れ、30kmほど離れた郡山で生活を再建しなければならなかった。「帰還しようとすると裏切られます。今では田んぼはきれいに見えます。半年前には放射性廃棄物の袋が並んでいました。そして森のキノコや山菜を採ることはできません。」キノコからは一貫して1kgあたり3万ベクレル以上の放射能が検出されている。キノコ販売での法的規制値は100 Bq/kgに固定されている。強い雨や風の日には、森から放射性物質が流出する。もう一度除染が必要なのだ。


離婚したカンノさんは、新たな家族をつくることも考えなかった。あの惨事の当時に南相馬市の市長だった桜井勝延は「3月の時点では私には障害のある子供がいましたが、南相馬市は大家族世帯の記録を持っていた。今はもう妻たちも子供たちもいません」と嘆く。「高齢者の割合は災害前の25%に対して35%を超えている。独居の人たちだ。老人に関かわっているのは老人だ。これはどうしようもない」と、南相馬市立病院の及川友好院長は危惧する。「私の家は20km圏内にあります。家族と自分は仙台に避難しました。妻と子供はずっとそこで暮らしています」と小高交流センターのサトウ・タカノブ センター長は認めている。


3-11の後に取り壊された和服の縫製場の跡地に整備されたこのセンターは、レストラン、地域農産物のマルシェ(販売所)、レジャースペースが入っている。ヨガやフィットネス教室

はしっかり成功している。「ここで私たちは共同体のつながりを作ろうとしています。ゼロから出発するのですから、長くかかるでしょう」と佐藤さんはいう。このセンターは現在の町長 門馬和夫の、子供たちのいる家族を元気づけたいという誓願により実現した。「私たちは、暮らしをより豊かにし、放射能関連の不安を減らし、新たな経済活動を展開すべく働いています、例えば福島ロボットテストフィールドのような」それは最新のロボット・テクノロジーの上に展開されている。この交流センターのほかにも、カフェや居酒屋が再開されている。小説家柳美里は本屋さんを開店した。


これは未来という幻想を与えるもので、放置され雑草が生い茂った空間になった地区を羊皮紙のようにパーチメント化している遺棄された家屋や再建されない建物とは対照的である。これが桜井氏の生まれながらの楽観的な性質を揺るがす悲しい現実である。あの災害から10年がたち、政府は声高にインフラの再建は達成されたと言うが、彼が「見えない放射能の脅威」と呼ぶものが、今でも実際の復興、つまりはひとりひとりの人間の復興を妨げている。「人々が戻って来なければ、南相馬に未来はないのです。」

(Le Monde紙 2021年3月10日)