フクシマ原発所長の死後に明らかとなった圧倒される証言

「3号機建屋が爆発した直後に、40人が行方不明になったと聞きました。この時、もしも何かが起こったらここでハラを切るのだなと思いました。」

これは、9月11日木曜日に日本政府がオンラインにのせた貴重な証言である。これは2011年3月11日にフクシマ発電所の所長であったヨシダ マサオの証言である。あの日、地震、そして東北地方に約2万人の死者・行方不明者を出し、チェルノブイリ以来の最悪の原子力災害を引き起こすことになる津波が、東京電力発電所を襲った。

「この国とバカな政治家を潰す」
公開された400ページの文書は、2011年6月から11月にかけて政府のフクシマ災害調査委員会によって行われたヨシダ氏からの事情聴取を詳細に記載している。この熱心な仏教徒が2013年7月9日に58歳で死去したため、発言はなおさら心に響く。彼は食道癌となり、このため2011年の年末には損壊した発電所の指揮を辞任しなければならなかった。

彼の証言が未来への教訓となってもらいたいものだが、ヨシダ氏は単一の敷地内に過度に大規模な原子炉が集中することには反対であると強調する。フクシマには6機の原子炉がある。「リスク分配の問題です。」 これは、2007年に新潟地区を襲った地震の際に、同様に東電によって管理されていた柏崎刈谷原発を陥れた「カオス」を思い起こさせる。この原発には、7機の原子炉が入っていた。

1979年に東電に入社した前所長は、政治家や自社の幹部を攻撃することをためらわない。「私はこの国とバカな政治家たちを潰してしまいたい」と彼は攻撃している。惨劇の際に、損壊している発電所と、東京の東電本部、政府との間のコミュニケーションの問題を思い起こさせる一点として、3機の原子炉が炉心融解する事態に直面し、上層部の対応が不十分であったため、ヨシダ氏は東電の支持に従わず海水を注入する手段に訴えた。これは彼に戒告処分をもたらした。

彼への弔辞で、当時の首相カン ナオトは、「彼の毅然としたこの決断がなければ、惨状はさらに悪化していたでしょう」と評価している。2011年11月12日、報道陣に最初に許可された現地視察で、ヨシダ氏は「災害の最初の1週間は、何度も自分は死ぬだろうと思いましたよ」と打ち明けていた。2011年3月の段階からすでに、早急に放射能汚染水の処理に専念することが必要だと警告してたんですがね、とも説明している。

「彼は叙勲もんですよ」東電の前下請け社員であり、現在は反核となった人物が2013年2月に打ち明けた。「もし彼がいなければ、自分はあの難局を切り抜けられなかったと思われるほど、あの事態は深刻だった。」

世論の圧力
政府は、現在までヨシダ氏の証言を公開することを拒否していた。本人が希望しなかったというのがその理由である。公開に踏み切ったのは、世論の圧力に譲歩したのである。日本国民は、政府、官僚、産業界および学会が複合した「原子力ムラ」が、施設は安全であるという神話でなぜこれほど錯綜し、解決に少なくとも40年は必要で、放射能衛生と環境への影響がまだ評価困難な大災害の管理において破綻しえた理由は何か、理解したいと考えている。

政府がこの証言を広めた理由として、この一ヶ月間、この証言に関する漏洩情報が多様化して、論争を引き起こす形となったからである。同じ9月11日に、中道左派寄りの日刊紙アサヒは、ヨシダ氏の証言情報に基づいたものとして、災害のさなかに650人の社員が原発から逃亡したと5月に報道したことを謝罪した。実際には、避難はしたもののむしろその後のコミュニケーションの行き違いがあったとのことで、ヨシダ氏の証言では彼は彼らの判断をきちんと承認している。

この情報の漏洩は、現在議論されているアベ シンゾウ首相と実業界が希望する原発の再稼働に干渉している。何万人もの人々がフクシマの災害のために避難生活を続けており、世論の多数派はこのエネルギー源に反対するようになった。

しかし、9月10日に原子力規制委員会は、鹿児島県・川内原発の2つの原子炉を基準上有効と認めた。政府と施設運営者・九州電力は、今やこの再稼働を受諾するよう複数の地方自治体を説得しなければならない。承認が得られれば、原子炉は2015年の初めにも再び動き始めるかもしれない。
(Le Monde紙 2014年9月13日)