マララ・ユサフザイ:「すべてのテロリストの子供が教育を受けられることを強く望む」

生地のスワット渓谷で過激派の銃弾を受け瀕死となった、例外的な勇気のあるティーンエイジジャーの少し歪んだ顔貌は、年ごとに聖人画のような様相を示すようになった。(?) 10月10日に、オスロノーベル賞選考委員会は、インド人カイラシュ・サチャルティとともに、17歳のパシュトーン系パキスタン人で教育の権利の闘士、マララ・ユサフザイに、ノーベル平和賞を授賞した。これは、ノーベル賞史上で最年少の受賞となる。

すでにマララ・ユサフザイは、2013年に欧州議会からバラク・オバマなど世界の大物に与えられているサカロフ賞をを与えられているが、その名声は、パキスタンのみならず世界中の子供の就学を目指す絶え間ない貢献に由来する。この夏には、彼女は過激派ボカ・ハラムによって連れ去られたナイジェリアの少女たちを解放するための「Bring back our girls」キャンペーンに参加していた。

マララ・ユサフザイは自分の思想のために死にかけた。最近は旅行者の天国となったヒマラヤ山麓のスワットの県庁所在地ミンゴラのスクールバスで、タリバンが彼女を殺し損ねた2012年10月9日、怒りはパキスタン中に広まった。ペシャワールのラフォーレからイスラマバードを経由して、重傷を負ったこの少女を支持するデモンストレーションが繰り返された。

女児が教育を受ける権利に対する活動ですでに知られていた彼女は、スワットがタリバンに占拠されていた2007年から2009年の時代から、BBCのサイトに仮設されたウルドゥー語ブログを運営していた。マララ・ユサフザイは、突然過激派の犠牲者となった。パキスタンタリバン運動(TPP)の報道担当者は、「暇を持てあまして我々を糾弾する西洋にかぶれた娘だ。タリバンを批判するならば誰もが同じ目に遭うであろう。」としてこの暗殺未遂の犯行を声明した。グル・マカイ(=ヤグルマギク)のハンドルを使っていた彼女は、タリバン占領下のスワットで過激派が横行する日常、特に女子が通う学校への暴挙を目の当たりにしていた。銃弾が顔面を直撃しながら、奇跡的に彼女は生きながらえた。

アメリカの回し者
瞬く間に彼女は象徴的人物となった。始まったばかりの彼女の名声は、それでも彼女の祖国では当惑と不快感を引き起こすこととなった。西側の芸能界のセレブ(マドンナ、アンジェリーナ・ジョリー)や政界の大物(ヒラリー・クリントンゴードン・ブラウン)が、彼女をイスラム主義者の蒙昧主義に対する抵抗の象徴的人物として賞賛するほど、パキスタンでは彼女の「外圧」による道具主義(instrumentalistion?)を非難する声があがった。パキスタンお家芸である陰謀論者達は、それ故に攻撃に転じた。

陰険で猜疑的な疑問がSNS上に広まった。どうして西側はパキスタンのこの小娘の感情に酔うんだ?そしてマララ・ユサフザイは、アフガニスタン前線のパシュトーン地帯を毎週攻撃しているアメリカのドローン機の犠牲になった子供たちについては、なぜスルーするんだ?だからといって、この少女が、西側諸国の、一般的にはイスラム教徒に対する、そして特に核がらみでパキスタンに対する悪意に操られた「アメリカの回し者」であるとして、これ以上責めることがあってはならない。

ジャミアト・ウレマ・エ・イスラミ党(JUI)、それは神学校マドラサタリバン戦士の養成所に代用しているのだが、その党首サミ・ウルハクは、マララ・ユサフザイは「西側の反イスラム勢力によって誘拐」されたのだろうと述べた。非体制的な影響力をもつパキスタン自由党という組織が最終的に活性化し、そして反撃を受けた。小説家ビナ・シャーは、2013年夏に日刊紙Dawnにて辛辣な言葉で彼女の怒りを表明した。

彼女は、このような反応は「パキスタン人が誇りであると思わなければならない人物に対して敵対していこうとする恥ずべき意思表明」であると書いている。マララ・ユサフザイは、誹謗中傷する人たちを黙らせるために、2013年10月にホワイトハウスに彼女を招いたバラク・オバマに対して、北ワジリスタン(アフガニスタンとの前線部族地帯)のジハージストを標的とするアメリカのドローン機による爆撃をやめるよう求めた。彼女によれば、それは「無実の犠牲者を殺害し」そして「テロリズムを助長している」。

「私たちのノートと鉛筆が、私たちの武器」
マララ・ユサフザイを国際的な偶像として知らしめた重要なプレゼンテーションの一つ、2013年7月12日にニューヨークにて行われた国連Assembly of Youth(若者会議?)にて行われたスピーチが、彼女の立場を議論の余地のないものとした。タリバンは「私たちを銃弾で黙るように追い込むことができると考えたのだろうが、それは失敗だった」、この時彼女は、堂々として揺るぎなく良識ある発言の中でこう言い放った。「ノートと鉛筆を取りましょう。それが私たちの最強の武器なのです。」と彼女は続けた。彼女はこのような深い人間性を示す表現をしている、「タリバンの少年少女にも、すべての過激派やテロリストの少年少女にも、私は教育を強く望みます。」結論の前には「私は、襲撃されたタリバンにも全く憎悪を抱きませんでした」。

これは当然のようにオヴェーションを惹き起こした。たくさんの聴衆が涙を浮かべた。スピーチの中で彼女は叫んだ「私は変わらなかった」? それでもこの日、おそらく世界の人々が彼女を見る目が変わった。別のマララ・ユサフザイが生まれた。情熱に輝く少女が今や世界に認められた。彼女の勝利は、安全に彼女の故国に戻れることでは十分ではないであろう。彼女にとっては、いまだにそれがまだ必要なのだが。
(Le Monde紙 2014年10月10日)