女児の教育は21世紀のための地球規模での試練である

女児の教育は21世紀のための地球規模での試練である

南半球では、女の子供はどこでも常に就学から疎外されてきているのだと、経済学者ガエル・ジローは強調する。


2018年の段階で、1人の女の子であるという単純な事実が、学校に行けない要因の一つとなっている。ユネスコによれば、現在この地球上に生きる1500万人の女の子には、小学校に通うチャンスが全くないであろう。これに対して男児の場合、それは約1000万人である。この不平等は、特にサハラ以南のアフリカにおいて顕著で、小学校に行けない100人の男児に対して、123人の女児が教育の権利を拒絶されている。同時に、歴史的にこれまでなかった事実として、広義の西洋社会(ヨーロッパ、ニッポン、韓国、英語圏の国々)では女性の教育水準は男性のそれを上回っている。

世界的な傾向としては、ヨーロッパの現代性はルター派の改革による読み書き教育の普及の恩恵を受けていることは疑うまでもなく、その一方でアジアの「ドラゴンズ」の経済的な発展は、その国民の卓越した教育水準がなければ説明ができない。特に女性の教育が重要であることは、広く支持されている。それは人口構成の移行を加速することに貢献しており、マリ共和国では、中学・高校の教育レベルの女性の場合には平均して3名の子供を産むこととなるが、これに対して学校に通えなかった女性の場合には、平均して7名の子供を産んでいる。

教育は、雇用へのアクセスや境遇の向上も容易とし、セネガルでは、農村地帯出身の子供たちが農業労働以外で雇用を見つける可能性は、母親が読み書きできる場合には27%増加する。教育は、特にテクノロジーに対する状況の変化や、生態学的な不順への適応も容易にする。エチオピアでは、6年間の教育を受けることで、農民が、その農業技術を、自然の生態系のレジリエンス(対応力)に有利に働くよう調整する可能性が20%増加するようだ。

教育は暴力の減少においてもその役割を演じており、アフリカのすべての社会がそうであるように、若年人口において中等教育の学習歴のある若者の割合が30%から60%になると、紛争のリスクが半分に減っている。これは驚くべきことではなく、アフリカ諸国の政府はその国家予算の1/4を教育に割いている(これはヨーロッパにおけるよりもはるかに割いている)。そしてエマヌエル・マクロンが、女性の就学をフランスとアフリカとの協調の優先課題の一つとしているのは当然のことである。

国によっては、その教育システムがもたらす成果にばかり注意を傾けようとした政府が、教育システムから締め出されていく仕組みの方を無視している。今日でこそヴェトナムは、その教育の成果がフィンランドと同等だとハナにかけているかもしれないが、しかしこの結果には、青少年の20%、特に北部の少数民族および農村部の、いまだに中学校に行けない青少年が考慮されていない。それゆえ、必須となる教育システムの効果に関する調査だけではなく、世帯ごとの教育の要請、特に女児教育の要請について、その社会的、文化的、政治的側面を考慮しなければならない。


4000件の若年妊娠
なぜ最下層の人々はいつまでも学校に行けないのだろうか。その最初の側面は治安に関連している。通学路は、特に中学校になると、多くの場合初級科よりは自宅から離れており、危険かもしれない。ユネスコによれば、毎年世界で約2億4600万人の子供が学内での暴力の犠牲となっている。女児は特にこういった虐待から性的侵害におよぶ暴力を受けやすい。

コート・ジヴォワールでは、2017年に教育省に登録された学内での若年妊娠は4000件であった。ああ、この現象は最近始まったことではない。その深刻さは、それより以前から自覚されている。この解決法を模索するために、2014年に国連による研究グループが作られた。予防法(性教育と母胎衛生)、責任者たちの懲罰、犠牲者たちの調停と事情聴取、法的な保護を実行することによって、今から2030年にかけて学校から「暴力を排除」することが可能となる。母親となった未成年を、学校に、社会に、家庭に復帰できるようにすることもまた最優先課題で なければならず、サヘル地方のある地域では、14歳で妊娠すれば、時には母子ともにそのまま社会的に追放されることになる。

女児が受ける就学差別の一部は、その「家庭内」における立場からきている。奥地の村のコンセッションでは、女児は水を汲み焚き木を運んでくる、家事、弟や妹の世話、食事の支度などを任されている。街中にいる子供たちが少年ばかりである理由も、女の子を学校から引き上げることを正当化する理由と同じであって、彼女たちがいなければもう所帯が回らないのである。これは、長年にわたる文化人類学的な争点を思い起こさせる。エマヌエル・トッドによる研究は、家族というシステムが「進歩」しうるのは、女性の社会的地位が低下するという意味においてであることを示している。アラブ・ペルシア世界とインド北部においては、女性たちが置かれた条件は、世紀を重ねるごとに、共同体父系威圧的な家族(?: une famille communautaire patrilinéaire autoritaire)という意味で世帯そのものが複雑になるにつれて、悪化していった。

不平等の複雑さそのものは、農業システムの進化や国民の信仰的背景から独立したものではない。家族という基本的単位は、決して政治以前のものでも歴史的観点から離れたものでもない。アフリカ大陸に影響を及ぼしている気候の温暖化や生物学的生態系の崩壊といった大変動が、それ自体が脆弱である国家や特に公的教育の存続に対して、決して取るに足らないものではなくなっていくことは、ほとんど間違いない。若い女性たちは、こういった衝撃や、それによって生み出され強化される威圧的な父系家族の立て直しによって最初の犠牲者となりかねない。

初等教育の質が、いまだに多くの国においてまったく不十分であるだけに、この問題はよりいっそう懸念される。サハラ以南のアフリカの、フランス語を公用語とする10カ国を対象としたPASECの調査によれば、初等教育を終了する段階で、生徒の60%に期待された言語と計算の能力がない。それゆえ、21世紀を世界規模で有効な読み書き教育へのアクセスの世紀とするには、この脅威は膨大なものなのである。
(Le Monde紙 2018年3月8日)