公開討論: 破壊欲動の新たなる諸形態

パリ-ソルボンヌ大学精神分析助教授 Hélène L'Heuillet 

アルカイダから始まりダーイッシュにかけて、ある状況が認められるようになりました。それは、誰もがもっている破壊への欲動が新たな形を取りつつ、テロリズムもジハディズムもすっかり変わってしまったということです。これらの集団のプロパガンダによって実現されることとなった欲動の特異な活動化のなかに、今までにはみられなかったこの暴力の起源が見出されたのです。その可能性について把握するためには、あるイデオロギーを信奉した人間が、どのように殺人行為に至るのかを理解しなければなりません。

殺人のタブーに背くことは、通常であれば人間社会によって厳密に制限されています。国家間の戦争において、この戒を操作するものは政治権力です。テロリズムでは、たとえ人材確保のためのネットワークがあるとしても、組織への加入には個人の自主性が基本となります。「イスラム国」集団では、2002年にアル・ザワヒリによって規定されたアルカイダの教義が再び採用されており、そこではジハードは、複数の人間で行っても、援護を受けても、教唆や金銭的な支援を受けていたとしても、あくまでそれは個人的な事項であるとされています。組織に加入していたとしても、殺人を禁ずる戒を解除することは、主体性から起こらなければならないのです。

このような効果を生み出すにあたって、その核心となっているものは、信仰の果たす役割だと思われます。しかしながら、ここで持ち出されたものは信仰そのものではなく、戦闘を意図した信仰の政治的な道具利用です。どのような宗教でも、解釈と問題提起の余地はあるべきですが、それはテロリズムの積極的活動主義とは相容れません。要するにそれは、教義は政治的スローガンのストックとして変容してしまったのではありますが、つまり教義への信奉は人材募集の素晴らしい手段であって、それはイスラム教徒の目から見た西洋化した社会に特徴的な「生の偶像化」という主題から離れているからです。「行為化」に至るためのこの全般に及ぶ条件は、状況に応じて次のような3つの下位条件へと変化します。妄想的な支配力の形成、心的外傷の状態が保持されることによる自他の空隙の更新、偉大なる全一性へと統合される約束であり、後者は父権的よりはむしろ母権的な権力モデルの価値を再び高めます。

古典的な軍隊で兵士たちが禁忌である殺人を受け入れる時、彼らの中の主体は、殺人行為への関与にあたって時には分裂されたままでいるという体制への服従(?: ordre)により支えられます。再び平和になれば、彼は戦争の愚かさについて愚痴をいいます。しかしテロリズムにおいては、主体そのものが指揮権に取って代われなければなりません。アルカイダやダーイッシュに新たに加入した若者の内面には想定できないような、全く精神病的な主体の構造を除いても、ここには精神病と類似しているものが何かあります。かたや精神病では、私たちが知っているように、殺人の行為化は幻覚状態の中で出現するものであり、そこでは主体は求め縋るような(invocant)幻覚の中で、殺せという指令もしくはある声を受け取ります。つまり、いわば人工的なパラノイア的傾向が形成されることが必要であって、陰謀論的なテーマ、敵を厳密に構築すること、復讐せよという呼びかけなどの現前を説明するものがなければなりません。これによって、主体としては消滅しながら、主体は自分自身に従うことが可能となるのです。すなわち、探していた楽園とは、主体そのものが求める主体の廃止の他にはないのです。

欲望の不測の危機が軽減される、そうすることで欲動、そして何よりも死の欲動に身を任せることが可能となります。過去のテロリズム行為、この場合には首斬り行為の光景が想起されることで、彼は死の欲動性の中に居続けます。殺人を行為化するには、虚無や破壊や白紙状態(la table rase)を可視化するような、欲動の活動化が緊急として必要となります。インターネットは、動画化されたシーンによってトラウマを生むようなコンテンツのみならず、SNSにおけるコミュニケーション形態が可能とする、媒介を必要としない即時性によっても、このプロセスにおいて決定的な役割を果たしています。若いジハディストたちは、インターネットを経由しています。彼らの大多数がSNSを経由して集められており、別の人たちは、刑務所や実生活での出会いがあり、その後ジハディストのサイトを訪れます。こうして主体は、人工的なトラウマ状態に置かれます。そこから生じた死の欲動が切望するものの中で、彼は全てを破壊し戦争と政治がニヒリズムへと変容する際に特徴的な「虚無」を創造することを志向するようになるだけでなく、肉体を分断すること(首を切られた者の頭部、もしくは自爆攻撃におけるテロリストや犠牲者の爆発)によって死を与えることができるようになるのです。

このような殺人の様式は、リビドーの蒼古的(archaïque)な状態への回帰を示しています。偉大なる全一性のなかで、対象の象徴化による快感獲得の全き約束が意味を持つのは、この蒼古的なリビドーの中においてであり、この全一性とは、ジハディストの主観的責任の放棄を支持する群衆のそれであると同様に、この政治的救世主の到来願望、もしくは世界の偉大なる統一性、すなわち母なる永遠のシンボルが目指す空想上の共同体のそれでもあるのです。
(La Croix誌サイト 2015年10月19日)