Post-véritéな社会のリスク

社説。2016年には、複数の人物がでっち上げた虚偽を故意に発表した。これは、メディアにとって、政治的な人物にとって、そしてテクノロジー企業にとっての試練である。


ル・モンド社 社説 : 非常に尊敬されるべきオクスフォードの辞書は、2016年の言葉として「post-truth」という形容詞を選びました。世論形成に対して、客観的な事実が、個人の情動や心情よりも影響力を持たないような状況を意味するこの表現は、実は新しいものではありません。

この表現は十数年前に登場しているのですが、2016年に世界に衝撃を与えた2つの投票行動のために広く認められるようになりました。すなわち、6月23日のBrexitに対する国民投票であり、これによってイギリスはEUから脱退することになり、次ぐアメリカ大統領選挙では、11月8日にドナルド・トランプが勝利しています。

2016年の選挙の年に起こった現象であるこの「post-truthな情報」(真実が終わちゃってる情報)は、私たちすべてに関係しています。

オランダ、フランス、ドイツ、おそらくイタリアにおいて決定的役割を果たすべきいくつかの選挙のキャンペーンが、すっかり出遅れることとなった年の始めに、post-truthというこの新たなメデイアの時代が与える試練は、ヨーロッパではとても重大なものです。

post-truthな社会規範となった世代は、私たち、まずは我々のようなジャーナリストやメディアの専門職、これはアメリカ、アジア、アフリカでも同様にヨーロッパの報道関係者に関係しています。それは我々が働き、我々が基盤としている環境を根本的に覆してしまったからです。メディアの仕事の出発点には、客観的事実があり、それは報告されその次に解説されると考えられています。事実は、真実を確立するために貢献するのです。この流れの中で、メディアが間違った事実を考慮することがあります。こういう間違いは、いかなるものであっても無作為のものであって、訂正の対象となります。

post-truthな、もしくは「post-faits」ともされる情報の時代には、いずれにせよ真実は、もはや基本となる価値観ではないのです。今日では、政府の重要人物が、事実をわきまえていながらも、その真実には最小限の考慮もせず、嘘のでっち上げを発表し、それによって利益を得ることができるのです。


でっち上げの虚偽が浸透していく時
それは1月20日に任命される次のアメリカ大統領、ドナルド・トランプも同様で、彼は数年前に、現職の大統領バラク・オバマアメリカではなく父親の国ケニアで生まれたのだとする「情報」を流すことで、その政治的評価を広げることとなりましたが、これは法的にオバマの大統領としての資格を失わせるものでした。トランプ氏は、2016年の選挙キャンペーンを終えるにあたって、オバマ氏は確かにアメリカ生まれだと認め、しかも何らの弁解もするわけではありませんでした。バラク・オバマは出生証明書を公開しましたが、それはこの共和党のトランプ候補者の主張の信憑性を、全く損なうことはありませんでした。

いつの日か「Ali Juppé」とか「Farid Fillon」についての噂が出るとするなら、その根底には同様の論理があります。提示される事項は故意の虚偽なのですが、でっち上げられたその虚偽は、公的談話の中で認められるまでメディアに浸透します。

post-truthな情報は、メディア以上に政治の当事者に関係します。たとえ彼がそれを活用しようと考えるからだとしても、その標的となるからだとしても。それはグーグル、フェイスブックツイッターといったテクノロジー産業の責任者に対して倫理的な試練を課しますが、これらはそれを媒介手段としており、ずっと後になって反抗を始めました。

これらの企業は、各人が確信をもって閉じ込められている「認識の泡」を用いて、特に苦労もなく情報の共同消費に貢献するものです。post-truthな社会が構成する大きな試練は、情報の信頼性に関するものであって、それは民主主義の機能の中心をなしています。ここにあげた試練は、全ての読者や市民に関係するものです。読者や市民がそれを要求してくれることが、私たちにとっての最大の支持者・パートナーとなるのです。
(Le Monde紙 2017年1月2日)