ディーゼル車を乗り回すゴロワーズの革命

ディーゼル車を乗り回すゴロワーズの革命

作家で教師でもあるAymeric Patricotにとって、「イエロー・ヴェスト」の怒りは、エマニュエル・マクロンが口にした発言によってけなされたと感じる根元的なフランスの怒りであって、それゆえ2005年のパリ市郊外の暴動を思い起こさせる。


2年前に、メトロや汚れた空気や高い生活費や民族的・社会的な暴力のムードから離れられる転職の機会があったので、私はパリを離れて地方の小さな町に移った。静かで健康的な生活のような何かを楽しめるものと思っていた。これが、マクロンの任期の最初の18ヶ月を、地方の視点から観察することとなった。最低限言えることは、このスペクタルは強烈なものだった。彼への反応の中で私が感じたあるものを、もう一度ここに書き直してみる。

地方では、すでに一年目にしてある不満を耳にするようになっている。地方はひっくり返されたと思っている。制限速度は80 kw/h、助成雇用の削減、結局は脅かされる地方財政、ますます低下する公共サービス、学区を犠牲にした地域の小学校のクラスの二分割化。しかし、人々はブツブツと文句を言うことで溜飲を下げている。もちろん、マクロンの当選はあまり正当ではなかったと考えている。彼は運命の圧倒的な悪戯によって現在ここに至っている。 しかし、自分では従うつもりなぞない原則を挙げて声高に語るような階層が行う、こうした権力の没収に人々は慣れてしまっていた。人々は、本質的なもの、公的秩序(これがオランドのもとで散々なことになったとしても)や経済秩序(失業率が悲惨な状況のままであっても)などが保たれていたから、この宿命を受け入れたのだ。

そして2018年の夏の間でさらに全てがひっくり返った。人々は意思疎通の失敗だとしたが、病根はもっと深かったのだ。地方から見ると、何週間も何ヶ月もの間、来る日も来る日も続いた行動が、今回の5年の任期の本質を明らかにした。マクロンはその地方の人々を知らない。じつはもっと酷く、彼らを軽視していたのだ。そしてそれは、全く悪気がなく、心から。すなわち地方の住民は単純な人々で、意のままに賦役を課すことができ、歴史によって余儀なくされ、彼のように高貴さと財力を体現している中央権力にとっては危険なものになりかねないといったその思想の本質を、呆れるほどに率直に明らかにしていた。

それについて人々がどう判断したか。ある人々を想定した小生意気な態度(君は僕を共和国大統領閣下と呼ぶ」「道を渡ると君たちを見かける」「何者でもない人たち」「怠け者たち」)に関する一連の尊大な発言があった。 民主主義には節度というものがありながら、近親者や同僚に便宜を図った(アレクサンドル・ブナラ、アーニュ・サール、フィリップ・ベッソン...)。自分の豊かさをひけらかした。狩猟者は地方性を象徴するものだという口実で、狩猟者を優遇するプレゼントのような恐ろしくあけすけな行為があった。


鞭打ちおじさん

何にもまして、ふさわしいとは思えないばかりか、侮辱しているとみなされている姿勢があった。私が起爆剤になるとみたのは2つの出来事で、それはさらにメディアによって馬鹿正直に見届けられている。

まずは、この「変化に抗っているゴロワーズ」に関する不運な発言、不平不満が時にはこの国を特徴付けるものであれば、ある意味理解可能な表現である。問題はマクロンがフランス人ではなくまさにゴロワーズを、つまり地方の根元的なフランス人に相当する、集合的想像界にあるような、特に郊外にいる白人フランス人たちを、つまりは普段からパリのことをアルコールでイカれて赤ら顔で、フランスにとっては継子のようなものだからとして馬鹿にしてばかりいるような人々を挙げつらったのだ。

サン・マルタン島で、元拳銃強盗とその中指を立てた従兄弟と抱き合うマクロンを現場でとらえた画像は、憎悪を確固たるものとした第2のシーンに相当する。彼が小馬鹿にする人々のアイデンテティについて注意を促した後なので、マクロンは彼がこよなく愛する人々をこうやって打ち明けたのだ。そして今回は、彼の発言には愛情がこもっている。掛け金は閉められていた。このアナリストの銀行家は、地方よりも郊外への愛着、自ら名付けた「勤労階級」よりも街のゴロツキたちへの愛着を打ち明けているのだ。混ぜこぜのニセ物なのか。もちろんだ。しかし、いつでもこの混ぜこぜが得意とする人々は、かぶれやすい人たち、傷つきやすい人たちであり、政治家たちの役割は彼らを骨抜きにしようと試みることだ。疑うまでもなく、ここに絡みあっているもつれを切断し、こうした縮図においてもこの国家そのものは転落していないと断言するための、とても単純ないくつかの言葉が必要だったのだ。何よりも中産階級の租税が政界を支えていて、恵まれない階層を一生懸命維持しているのだという理念が、それがどのようなものであっても是非とも必要だったのだ。

民族的なとは言わないために、この文化的な意味はあまり論じられていない。今でもその一部はタブーのままだが、いくつかの論法の基盤となり、いくつかの象徴を育てている。身内には厳しくよそ様には優しいあたり、地方の人々の精神のなかで、これからマクロンは悪い子に鞭打つナマハゲおじさんになるのであって、彼が外国人について自らの考えをしばしば表明しているという事実は、人目につかずには済まない。こうやって憎悪の現象が始まるわけで、人間のその外見に皮肉を言うとき、楽な暮らしをしているからと彼らを叱責するとき、人は非常に強く、これは私の懸念なのだが、残念ながら不可逆な拒絶運動を引き起こす。「イエロー・ヴェスト」の革命は、2005年のパリ市郊外の暴動と対をなすものではないのか。屈辱を受けたと感じる同じ地域社会の住民たちの怒りである。大都市周縁に追いやられることにこれ以上耐えられなくなった、人種化された(racisé)郊外の住民、その次はエリートにこれ以上無視されたり、搾取されたり、バカにされたりすることを受け入れない、ディーゼル車を乗り回すゴロワーズ

結局、貯水タンクをこぼれ落ちさせるようなとんでもない一滴であれば、もはや危険のないものではない。何十年も前からどの大統領も、嫌なことはすぐに忘れ去られると見込んで租税を増額することから始める。しかしこの手があからさまなものとなった。いくつかの調査は、国民がずっと以前から示していることをためらわずに明らかにする。つまり、中産階級の購買力が低下している。さらに連中は、それは大義のためだ、つまりは経済的な過渡期なのだと明言しながら中産階級をあからさまに無視する、こうして連中は蜂起するための客観的な口実を国民に与えるのだ。

怨恨を補足する要素として、クルマは地方では原動力なのである。シャンパーニュに住むようになってそれがよく分かるようになった。あれから私は、通勤で月に1000キロかかる。減価償却費用、維持費、保険料、高速料金、ガス代、これらは浮いた家賃で節約される額よりも高い。パリに住んでいたら、こんなこと分かるはずがない。

それ以来、この状況は私にはこう見える。政界は、無能で傲慢で不当で、特権で優遇されていると思われているんだ。今回の拒絶には、ほとんどの政治団体が含まれている。どうやれば今の政権が出口を見出せるのかは分からないが、内乱というこの暴力の現象は始まっている。肉体に熱狂が宿ってしまえば、それを鎮めるのは難しい。1つ確かなことは、治療法があるなら強力でないとダメだ。
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Aymeric Patricot : 予備校文学教師で『Autoportrait du professeur en territoire difficile 』 (Gallimard出版 2011年) と『 Les Petits Blancs. Un voyage dans la France d’en bas 』 (Plein jour出版, 2013年)の著者として知られる。
(Le Monde紙 2018年12月8日)