19世紀日本の社会主義的市民権

19世紀後半に近代化された非・西洋国日本は、1945年の敗戦とアメリカによる占領を待つことなく、社会主義的市民権を実現していた。「大正デモクラシー」(1912ー1926)は、民衆の反乱の機運のもとで始まった政治的にもそこそこ自由化された期間であり、この間に社会問題が尖った形をとったのだと、歴史家ベルナール・トマンは提起する。民衆の要求に対処するため、政府は社会主義的政策を志向した人口科学(人口統計学、衛生学、都市開発)を奨励した。

社会主義的な市民権の誕生は、優秀な人材層の国際化と相まっている。支配者の囲いの中に抱かれた「改革の漠然としたもの」が、1929年の大恐慌の直後に、自由主義資本主義に対する批判や目先の経営者利益保護を乗り越える要請から、産業革命の始まりをもたらした。もっぱら上から押し付けられるばかりでもなく、生まれたばかりの社会主義的国家は、闘争的な労働運動が登場するという結果ともなった。さらに日本は、1919年に国際労働機構(ILO)に加盟している。

経済的海外進出
生まれてまもないこの産業民主制は、軍国主義の期間および1930年代に始まった大陸進出の中で衰退したが、総動員令や戦争遂行の努力は、「労働者階級を社会の中心であると」位置付けた。「このプロレタリア集団の政治的かつ社会的な統合」は、「国民国家を引き継いだ同業組合主義タイプの企業モデルに応じて」実現したものであり、この統合が「フォード型経営と真の給与型社会の構築に向かう決定的な段階」となったことを、我々は研究者ベルナール・トマンから学ぶ。戦前の社会主義的政策は、終身雇用制や企業の社会参加といった「日本型」労働関係システムの起源となり、それは敗戦後にも持続した。強いサンディカリズムからの要請と相まって、1945年の変革は、強い経済成長という状況下での社会主義的国家の発達を促した。

これらの疑問点を検討しつつ、ベルナール・トマンは、戦前の日本は後進的であったという主張を拒絶するような史料編纂の動向のなかに立場をおく。日本の経済的な海外進出の特殊性を明らかにしつつ、彼は「19世紀と20世紀の世界史の大きなエネルギーのなかに日本が完全に組み入れられていた」ことを示すが、しかしそれにふさわしい解決法も挙げている。この書籍は、大部分の基盤を日本の情報源においており、西洋で造られた「大きな話」として単純化されるわけにはいかないような問題提起を行うことで中心をずらす有益な行為のために、これは日本研究の専門家のみならず経済史家にも向けられたものである。すべての産業化が、このような西洋で造られたモデルに必然的に従うものではないのだ。
(Le Monde紙 Le Monde des Livres  2015年12月2日)