モーリス・レヴィ より人間的なリベラリズムのために

モーリス・レヴィ  より人間的なリベラリズムのために

 

 

 

20世紀の間ずっと私たちは2つの体制の対立の中で生きていた。共産主義には平等の理念があり、しかしそんなものはみつからず独裁制となり、そこには自由の剥奪、強制収容所、経済の悪化。そして資本主義には表現の自由、経済成長があるが、社会的格差と所得の剥奪。

 

前世紀の終わりに、共産主義は中国のような多少の例外を除いて崩壊し、そこではドン・シャオピンが一党独裁制に連動する市場経済を導入し、彼の発言を繰り返すなら市場経済においては「裕福になることは栄光」(*先富論?)であった。

 

グローバル化は中国、インドとアフリカのいくつかの国々の経済に活力を与え、10億人以上の人々が貧困を脱した。並行して、西側では中産階級が力を失い、それは貧困化、失業の加速、階級落ちと不安。同時に、新たなテクノロジーの世界はかつてない富を生み出したが、ごく少数の者の利益となる。その反発として、Podemos、オキュパイ・ウォール・ストリート、「ジレ・ジョーヌ」といった社会運動が生まれた。これらの運動はいずれもポピュリストたちに懐柔され利用されて、ある一つの原因をあげつらう。リベラリズムとその行き過ぎ。

 

歴史の教訓

ところで、ミルトン・フリードマン以来、ものごとはすっかり変わってしまったのだ。彼は1970年にニューヨーク・タイムズで「企業は株主たちが裕福になるためだけに奉仕しなければならない」と断言した。リベラリズムは経済成長から大きな財貨を生み出し、一人一人の生活水準における、もしくは科学の、テクノロジーの、経済の分野における大きな進歩を促した。ヨーロッパでそれに伴う重要なこと、最も脆弱な階層への援助のための再分配。こうした成果にもかかわらず、リベラリズムは富裕層のみに利益を与える経済モデルだと認識される。

 

この言葉「リベラル」は、その美しい語根「liberté(自由)」にもかかわらず自らを苦しめ、それはネガティヴな意味を持たされて最終的には侮辱となった。リベラルには心がない、社会的な知性がない、最も脆弱な人々に対する同情がない。裕福になりたいという欲望である、最富裕層に有利にはたらく欲望だけに衝き動かされる。これはいずれも最終的にポピュリストの利益となり、ポピュリストたちはいたるところで同じ波に乗る。つまり、エリートに対する拒絶、グローバル化の非難(それは確かに批判を免れない)、そして移民の波のリスク。

 

誰も歴史から教訓を引き出していないようで、ヴェネズエラやキューバにおけるように歴史が私たちの眼下に展開していながら。これらの成果はそれ自身について語らなければならないのだとしても、リベラリズムは「愛されて」いない。どこからこの愛情は冷めてしまったのか。社会主義の理想はあらゆる徳性で飾られている、その現実は全く違うと分かっていながら。リベラルのシステムについては、それとは逆に、人はその欠陥、欠落、不公平と行き過ぎばかりをあげつらう。

 

ところで、ヨーロッパでこのように実践されているリベラリズムは、その大西洋の対岸の資本主義との関係は薄い。この「ユーロリブ」は、大半のヨーロッパ諸国の社会において、失業の影響を緩和し、回復した経済成長が増額させた最低賃金、世界が我々をうらやむ社会保障制度、退職年金、住宅助成、公平でしばしば無料の教育システムなどを可能としている。しかし人々はこの緩衝装置にあまりにも慣れてしまい、そこにはもはや、その恩恵も、これらの緩衝装置が自治体に対して占める、もしくは我々が公的負債を介して未来の世代に遺そうとしている遺産に占める重要性も感じていない。

 

このような成果を生み出したシステムが、なぜよく思われないのか。疑うまでもなく、それはあまりに合理的で、あまりに管理的で、もしくはそれはその真価を発揮していない。しかし、その価値というものは存在している。それは自由と連帯の価値であり、それは残念ながらこのシステムにある欠陥と感情的表現の欠如によって隠されている。「ヒトは経済成長率とは恋に落ちない」と1968年5月運動のスローガンは言っている。

 

都市の投資家たち

このユーロリベラリズムをいかにより良くするか。それは、ヨーロッパの人々の利益を心がける政治家たちと企業の責任者たちの責務である。ヨーロッパは経済大国であるが、その土台は泥弱である。複雑でなかなか読めなず、ヨーロッパの人々との感情的なつながりを失い、20年以上にわたって市場と雇用のいくつかの部分を失って、世界の競合者に対して有効な視点を主張できない行政に足を取られている。単一市場を設立する時点で、誰もが「ヨーロッパという砦」を恐れる。でも実際には、私たちは世界の大プレーヤーたちが利益を得るためのザルになっている。私たちの強さは、私たちに共通の政策がないために弱さになっている。主権主義者もしくはポピュリストたちが信じていることに反して、私たちはより多くのヨーロッパを持つことのみによってのみ(?)、世界の競合者とうまく戦うだろう。ヨーロッパの経済的な重要性が、本来の力を発揮しなければならない。きちんとした構想を持ち、もっと強力で、もっと制御され、もっとむだがなく、もっと単純で、もっと分かりやすく、もっと具現化した、もっと質素な国々による、必要な負債の減額と投資のためのリソースを解放できる一つのヨーロッパ。そう、国家は、税務の引き締めと支出の徹底的な減額の努力をしなければならず、投資による経済成長を再開するには不可欠な条件。

 

その欠陥にもかかわらず、このユーロリベラリズムは、資本主義や個人のイニシアチヴの優れた点と、人間と連帯とについて考慮することの優れた点とを併せ持つ、今日で最良の経済-政治システムなのである。

 

もしもミルトン・フリードマン(1912-2006)が本当に死んでいるなら、投資家たちがそれを知ることや、企業がもっと都市に溶け込み、企業が社会的で環境論的な努力に貢献しようとする努力を投資家たちが考慮に入れることは良いことなのである。こうした価値を懸念する金融株主たちの支持がなければ、ヒトは「より良く」という言葉で考えることなく、いつまでも「もっとたくさん」という競争を続けるであろう。より良い生活条件、より良く自治体を考慮する、そしてさらなる安定雇用を創り出す。

 

ユーロリベラリズムをより人間的な経済とするためには二つの条件が必要となる。勤勉な起業家たち、ヨーロッパでは彼らに事欠かない、そして彼らを支えることができる資金、これを創り出すことが急務である。そこにはヨーロッパの独立が関わっているのだ。こんなふうに、世間の動きから取り残されずに、企業と雇用の発展は経済効率、遂行能力と競争力を経由するということを知ることによって、ヒトはリベラリズムをより人間的なものとすることができるだろう。またこうすることで、この「ユーロリブ」は、さらなる公正と、強くて勢力を拡大していく、人間に投資し未来を確立できる一つのヨーロッパを生み出すことができるだろう。

(Le Monde紙 2019年7月2日)