日本が反自由主義(illibéralisme)と馴れ合うとき

「アベ内閣の反自由主義の政策は、憲法に記された自由を損ない、歴史修正主義を助長しようとしています。」(政治学者 中野晃一)


アメリカとヨーロッパの民主主義が危機的状況にあることの徴候であるポピュリズムは、日本ではみられないように思われる。日本には、政治的なエリートに対する警戒心がないようだ。ある政治家一族の末裔である首相アベ・シンゾーは50%以上の支持率の恩恵を受け、そして彼の自民党は衆参院における主導権を握っている。前首相コイズミ・ジュンイシロー(2001-2006)の血に流れていたメディアを利用するポピュリズムは、前大阪府知事アシモト・トールや東京都知事コイケ・ユリコのいる、地方政治のレベルでとりわけ本領を発揮している。経済が沈滞しているにも関わらず、日本では社会的拘束力が破綻していない。ストライキも、荒れやすい地区も、散発するデモもなく犯罪となりにくく、社会関係は平穏である。

他の諸国でポピュリズム化を引き起こしている、社会的格差の増大や、孤立もしくは一部の国民が政治に反映されていないという感覚が、ないわけではない。「しかし、ヨーロッパとは背景が違うのだ」と社会学者オグマ・エイジは考えている。「日本は、移民とかEUへの帰属といった問題を無視しており、このために2匹のヤギを追い出して贖罪しなければならないのです。」日本には外国人居住者が少なく(1億2700万の人口に100万人強)、難民を気前よく受け入れることはほとんどない。2016年には、1万900人の申請者に対して、受け入れられたのは28名であった。そして、それは今日に至るまで、テロリズムのために制限されている。


メディアの統制
アベ氏は、活発な外交によって海外における政治家としてのステータスを獲得した。国内における彼の支持は、その政策に対する承認よりも、幻滅に起因している。コイズミ氏は、改革への希望(政府ー官僚ー 財界の鉄のトライアングルをぶちのめす)を利用した。しかし、この国民投票型民主主義の使い手は、約束を守らなかった。そして2009年にほぼ半世紀ぶりに、野党・民主党が初めて政権を手にした。ついで、ころころ代わる内閣の不安定さに飽き飽きした日本人は、調査結果によれば「他に選択肢もないので」アベ氏の自民党に投票した。田舎の選挙区では、1票の重みが都市部の2倍に相当し、このような田舎に恩恵をもたらす選挙システムが、コンサバティズム復権を後押しする。

このような代議員制度の危機に、アベ氏の政権復帰から始まったメディア統制が加わる。これは、制裁を恐れて政府発表を反復報道したり、情報源が行政内からのものばかりとなって現れる。政府による2014年のアサイ新聞への敵意に満ちた攻撃のおかげで、メディアは自粛、さらには自己検閲までするようになった。社会を閉鎖的にするよう働くこの自己検閲は、議会の特権、受託収賄を助長する口利き横行政治(clientalism)、日本会議のような右翼圧力団体の影響とかいった、自由主義以前の社会構造に由来するものである。

ポピュリズムの台頭以上に、日本は政治における自由な展望をダメにする「illibéralisme(反自由主義)」を病んでいるのだと、政治学者ナカノ・コイシは考えている。「アベ内閣の反自由主義の政策は、いずれも憲法に記されている自由を損ない、歴史修正主義を助長し、メディアの信用を形無しにしようとしています」と彼は強調する。「2012年にアベ氏は、「ニッポンを取りもろす」をテーマとして選挙戦を行いましたが、このスローガンは、ドナルド・トランプの「偉大なアメリカを取り戻す」の先がけとなりました。日本が1945年に再建する際の基盤となった諸価値感を、悪者とするには、アベ氏はポピュリストの言説に頼る必要がないのです。」


末期状態に転じつつある民主主義
2011年のフクシマの原子力事故によって、国家と民間企業との共謀によって仕向けられた、かなりの規模の責任放棄や数々の嘘が暴露された。しかし、1960年代から70年代にかけてのような説得力のある社会運動はおこらず、抵抗はいずれも展望のあるものではなく、政治的に引き継がれない局地的な連帯でできていた。1990年代の終わりに「金融バブル」が弾けてから、このような日本の社会がしっかりと進展してきている。日本では、最下層の少数派がしっかりと富裕になったことがないのだが、終身雇用の縮小と暫定的な非正規雇用の増加に伴って格差が増大しており、これは労働人口の半数近くにまで及んだ。失業者数は少ない(3%)のに、生活条件はずっと悪化している。

中間層には、もう先人たちより良い暮らしをしているという印象はない。パートで働く若い人たちは、「彼らは自分たちの条件から抜け出すことができず、ヨーロッパでは移民たちがやっているような仕事を受け入れている」とオグマ・エイジは指摘する。2016年の終わりに、人気のある雑誌Spa !が、社会の危機的状況を暴露するような質問をした。「孤独死するのと過労死のどちらがいいか」身寄りのない高齢者や、働き過ぎて死ぬ人たちをさりげなく暗示する質問である。これは日本の社会を苛む2つの問題である。

正規雇用の社会階層は、政治の力場から外れており、その懸念や不満から、反原発もしくは国家機密に反対するデモの最中にポツポツと言葉を発するが、それについてメディアが報じることは稀である。彼らの不満が表現されるのは、何にもましてSNSである。ポピュリストであり、少数派ながら激しいある右翼のアピールにその一部が応えており、朝鮮人たちを標的とした「ヘイト・スピーチ」が再激化していることがこれを示している。自民党への政界の収束と、信頼できる政権交代もしくは牽制力にもなり得ない野党の無能さ(incapacité)が、末期状態に転じつつある民主主義として現れる。ポピュリズムの熱狂を免れた日本は、おそらく単に台風の眼の中にいるだけなのだ。
(Le Monde紙 2017年3月9日)