「政治では、嘘よりも失敗の方が罪が深い」

アンドレコント=スポンヴィル:「政治では、嘘よりも失敗の方が罪が深い」


ル・モンド紙との対談において、哲学者であり、倫理とモラルに関する作品の著者は、今回の大統領選を散々なものにした、嘘、裏切りと出任せについて、あらためて説く。


1952年に生まれ、倫理に関して哲学の重要な作品のある(「ささやかながら徳について」1995年PUF社)唯物主義の思想家、アンドレ・コント=スポンヴィルは、モラルと政治とは切り離さなければならないと説く。「C'est chose tendre que la vie (フランソワ・リヴォネットとの対談、Albin Michel社 2015年」の著者が、今回の大統領選のモラルのジレンマについて分析する。


捜査を受けるようなことになれば立候補を断念する、という考えを撤回したフランソワ・フィヨンから、社会党統一候補を支持するという約束を反故にしたマニュエル・ヴァルスに至るまで、政治への信頼を損ねている無節操な言動や、口先三寸の発言や、厚顔さが横行している事態に、人々は気づいていないのでしょうか。

自分のした約束を守ることが望ましいということについては、これはどこも同じで政治においても、私はあなたに同意します。しかしそれが、現在の政治的状況について私たちに語ることは何でしょう。今の場合、マニュエル・ヴァルスが左翼統一候補を支持しないのと同様に、フランソワ・フィヨンが、捜査を受けながらも立候補したままでいるのは間違っている、と私は考えています。しかし、むしろ政治に影響を及ぼす不信感が生まれたのは、 こういういくつかの約束の不履行よりも、30年間にも及んだ大量の失業の長期化に負っていることを否定できません。私たちの政治が失敗するということは、何よりも経済的そして社会的なものです。しかるにこれらの分野では、嘘をつくことよりも失敗することの方がより深刻なのです。


「自分たちが自分自身を支配するために、私たちにはモラルが必要であり、自分たちが構成している国民をまとめて支配するために、私たちには政治が必要なのだ」とあなたは書いています。しかし政治では、モラルではないとしてもせめて最低限の倫理が必要なのではないでしょうか。

もちろん、モラルは必要です。しかし、倫理的な質問とは「私は何をなすべきか」というものであって、「誰それが何をなすべきか」ではないことを思い起こさなければなりません。モラル(*個人的な気概)は、一人称にのみ適用されるもので、他者に対しては権利と寛容だけで十分なのです。あなたがフィヨンやヴァルスについて考えること、それはあなたの問題なのです。だって、彼らを動かしている誘因について何をご存じなのですか。心や魂を見抜くなんて、誰ができるのでしょう。フィヨンの場合を考えてみれば、あなたがもしこれで彼を軽蔑するとしても、それは結構なことだし仕方もない。私は、彼と政治的に闘う方がいいし、彼を裁判官の元に留まらせる方がいいです。

ヴァルスに関しては、統一候補戦に参加した際の約束を守らないのは、間違いだったと思われます。しかし、私がそこにみるのは、何にもまして政治的な間違い、それは何ら決定的なものをマクロンに与えるわけでもなく、さらには余計に彼を困らす原因を作って、自分の政党や彼自身を損ないます。政治的には、まず重要なのは結果です。しかしモラル的には、まず重要なのは意図であって、意図によって全てのものがさらに不確かなものとなるのです。ヴァルスがマクロンを支持するとき、彼の意図とはどのようなものでしょう。「いろいろな個人的な利益」のために、彼は自分の陣営を犠牲にするでしょうか、マルティーヌ・オーブリーがそのことで彼を非難したように、もしくは逆に、いったい彼は「自分の国の利益のためにいろんな自分の利益」を犠牲にするでしょうか、フランソワ・バイルが宣言したように。私にはそれを知る手段はまったくありません。だからモラル的には、これが決定的な疑問なのです。

「しかしまあ、いずれにせよ彼は、自らの言葉を記憶にないと言ったのだ」とおっしゃりたいのですね。そのとおりです。しかし、約束を反故にするよりは守った方がいいと誰もがいうとしても、ほとんどの哲学者たち(カントを除いたほとんど全員)は、例外があることを認めています。しかじかの時に約束を守ることと、より大きな国家の利益(たとえば極右の勝利を回避するとか)とのいずれかを取らなければならないなら、この疑問は少なくとも開かれている。ヴァルスはつまり、政治的な間違いをおかしてしまったんじゃないでしょうか。しかし私には、アーノー・モントブールが仰々しく滑稽にやったように、このために彼が「無節操な人間だ」というような失礼なことはできません。


あなたのお考えでは政治とモラルは区別されなければならないのですが、嘘の問題、たとえばフランソワ・フィヨンが、息子たちが議員秘書をしてた際の弁護士資格について嘘を言っていたことについては、どうされるのですか。

一度も嘘をつかずに政治をすることなど、誰ができるのでしょう。ありふれたモラルにありがちな「がさつで、未熟で、無礼で、融通のきかない」ような規定を、政治においていちいち真面目に尊重しようとすれば、ときにそれはやがて「役立たずで危険」なものだったりするのです。政治の場では全てが許されるのでしょうか。もちろん違いますよ。しかし、ときに公共の利益が自分の良心をある程度ないがしろにすることは、除外されていません。ここにあるのは、程度問題がその全てです。嘘をつきすぎる人は、もうそれ以上支配できません。しかし、まったく嘘をつかない人が、それがたとえとぼけて隠蔽するタイプの嘘であっても、そんな人が選挙戦に勝てるでしょうか。たとえばもしフランソワ・オランドが、その選挙戦の「敵である財界」を非難する場で、労働法を改定すると発表したら、彼は当選していたでしょうか。民主主義国家には、立派でふさわしい政治家はほとんどいません。最善の者に価値があるのだと思うのですが、ミッテランよりもロカールシラクよりもレイモン・バール。しかし、ミッテランの時もシラクの時も、どちらもフランソワですがいずれのフランソワも2回ずつ当選しているんですよね。また、一番嘘をつく人物に投票しておけば、その後でその政治家たちの嘘を罵ることもすごく簡単です。


自らの言葉の信用を落としたために、政治的な指導者たちは尊敬されなくなったり、それ以上支配できなくなったりすることにならないのでしょうか。

モラルは政治的ではないので、右翼も左翼もありません。政治はモラルではないので、最も徳が高いものではなく、最も強いもの(原則として民主主義国家では最も数が多い者)が支配するのです。それゆえモラルと政治は、二つの異なるものです。嘘については、もちろんあなたが正しくて、いつも嘘ばかりついている人は、もはや誰も彼を信じず、またもはや上手く嘘もつけないでしょう。だから、なるべく嘘をつかないことが必要なので、厚顔に嘘をつくよりは、とぼけ通さなければならないのです。(たとえば、1958年に、アルジェリア系フランス人たちに「あなたたちのいうことは分かった」と言ったドゴールのように。)

それはいかなる状況で?まったく必要不可欠な時に。どのような条件で?個人の利益ではなく公共の利益となる時に。そこでは、またもやモンテーニュが最も重要な点を記していて、君主は「自分の言葉や信念を曲げ」なければならず、しかし「良識にとっては、こんな努力(こんな失態)をしなければならないなら、個人的な利益では見合わない、公共の利益が存在し、それが非常に明確でとても重要な場合なのである。」


卑劣な背信行為は、政治では避けられないものなのでしょうか。

違います。しかし、誠実さは保証でもありません。1940年にペテン元帥は、ドゴールが彼を裏切ったと多分思っていたでしょう。


政治における倫理に関するあなたのモデルは何でしょうか。

それはありません。私は、ロベスピエールよりもコンドルセを高く評価していますし、レーニンよりもジョレスを、シラクよりもドゴールを、ミッテランよりもマンデス=フランスを、毛沢東よりもネルソン・マンデラを評価します。だからといって、そこから「倫理的なモデル」を作るのかといえば、違います。私のモデルは、どちらかといえばキュニコス派ディオゲネス、エティ・ヒレスムやアベ・ピエールでしょうか。アベ・ピエールが良い共和国の大統領になったなんて信じられますか。同じようにドゴール将軍は、良い修道院長にはならなかったんじゃないかと思います。


エマヌエル・マクロンマリーヌ・ルペンが、お門違いに保守主義者と進歩主義者、愛国者とグローバル主義者を対立させるために、右翼・左翼の対立を無いものとしたいと考えることはもっともなことなんでしょうか。

それを無いものにすることは違います、そうやってそれをなくそうとするのであれば。私から見ると、右翼-左翼の対立は、わかりやすく、構造化を促してくれる、やっぱり必要なものです。しかし、すべてのものにとってこれで十分というものではありません。私たちは、いくつかの困難ながら必要な改革を行うべく、何年にもわたって国民の団結を夢見た人々となります。ここでマクロンは、たった一人で国民を団結させようとしています。もしもそんなことができるなら、脱帽ですよ。つまり、私には「右翼でも左翼でもない人物」は痴愚だと思われるのです。逆に「右翼でもあり左翼でもある人物」であれば、少なくともしばらくの間は面白いかもしれません。


相容れない二つの左翼の断裂は、もう元に戻せないのでしょうか。あなたから見て、今の私たちの時代に最もふさわしい左翼とはどのようなものですか。

元に戻せないかどうか、私には全くわかりません。フランスの左翼は、1983年の「緊縮政策への転向」以来、嘘を生きています。左翼は、その共同政策綱要の派手な失敗(18ヶ月間で3回の通貨切り下げ、失業率の増加、地方選での右翼の勝利)を引き起こしたかったわけでは決してないのです。グローバル化経済における内需政策、それが何をもたらしたかはすでにご存じです。そこで、左翼に始まり左翼に終わるイデオロギーの場にしばしば取って代わるような、ケインズ理論的なものや国家主権主義なものを混ぜ合わせるのですが、袋小路だと思います。つまり、私たちの時代に最もふさわしい左翼とは、グローバル化に反抗したりそれを楽観視する人々に立ち向かい、それを受け止める左翼ですね。これはフランソワ・オランドがやろうとしたことで、遅すぎたし消極的すぎたのですが、皆さん彼をかなり不当に扱っているんじゃないですか。


第一回社会党統一候補戦でアモンもしくはメランションに投票したかったものの、しかし「現実優先」とか「活き票」の原則のために、世論調査の持つ政治的潜在力に左右されて、第一回統一候補戦の段階からいきなりマクロンに投票してはだめなのでは、と悩んだ左翼の有権者たちのジレンマについてはお分かりですか。

もちろん、彼らの考えたことは分かりますし、それはつまりジレンマ、いわばどちらも同じように満足できない二つの可能性からの困難な選択です。私としては、この問題はなんでもありません。私はアモンにもメランションにも敬意を抱いていますが、政府の左翼とここまで対立しなくてもよかったんじゃないのかとは思ってます。彼らの方針というのは、さて自分なら彼らに投票できるかというとあまりにお話にならないんじゃないでしょうか。なので、私はマニュエル・ヴァルスの流儀でやります(しかし私は何も約束しませんよ)。私なら初回統一候補戦から、もちろん第二回投票がフィヨンvs. ルペンにならないよう、しかしその方針が私のものと一番かけ離れておらず、ざっとみたところで一番勝てそうな人物なので、マクロンに投票するでしょう。


投票所に入った市民の指針となる倫理的な原則とは何ですか。

主義主張のようなものよりもむしろ有効性を懸念すること、そして可能であれば全体の利益を個人の利益より重視することです。
(Le Monde紙 2017年4月1日: つまりは、ささやかながらエイプリルフールにウソについて...)