水と夢想

l’Obs誌セレクション

 

『LA FURIEUSE』    MICHÈLE LESBRE著

SABINE WESPIESER出版 152 P, 17 ユーロ

 

★★★☆ Claude Sautet の最後の映画『Nelly et Monsieur Arnaud』(*邦題:とまどい)で、自分が口述した自伝のページをEmmanuelle Béartが入力してくれたモニター画面を見ながら、Michel Serraultが打ちひしがれたため息をつくのを思い出すだろう。「懼るべきはこれである。記憶であって回想記ではないのだ」。このフレーズをMichèle Lesbreは引用しており、彼女にはアルノー氏のように自分の回想が消えていかないよう入力してもらう秘書はいらない。過去を他人任せにはしない。自分のものを下請けには出さない。だからこの『la Petite Trotteuse』や『Canapé rouge 』の小説家は、83歳にして初めてフィクションを離れ、彼女の幼少期の源泉へといたる流れに任せる。物語のバシュラール風のサブタイトルは明らかで、『Rives et Dérives』(*川岸と偏流/漂流 流れに沿って、そしてそこから離れて)である。彼女は歩いて川岸や堤防、曳船道を遡る。Michèle LesbreはChantal Thomasと同様に、泳ぐのではなく水辺を歩く人間である。彼女の記憶や蔵書のなかにあるたくさんの大小の川、クラウディオ・マグリスの蒼きドナウ川、Paolo Rumizのポー川、Václav Havelのヴルタヴァ川、Jean-Paul Kauffmannのマルヌ川、Eugène Dabitのセーヌ川やサン・フロラン・ル・ヴィエイユのJulien Gracqのロワール川。いずれの川も、この作家の素晴らしい祖父母、レオンとマチルダ(*!)が暮らしていたロアンヌの農村地帯を流れるロワール川とは似ていない。この感謝と誠実に溢れた本を開けば、二人の白黒の写真がある。彼女はこの祖父母について、「死者の中には、実は死んでない人たちがいるのよ」と述べている。川岸から川岸へ、ある世紀から違う時代へ、この元教員の頭にある考えは一つだけである。フュリユーズ川に沿って歩くこと、サラン・デ・バンの方に向かって。それはルー川の支流で、「クールベが子供を水浴びさせ、自らも最期まで水浴びした」り、彼女がそこに近づけば、感動して涙をこらえなければならないような喜びを抱くところだ(「その幸福はいつも私を涙させた」)。音楽的で文体も絹のように滑らかなこの穏やかな作品が、この川の激流のような名を借りてタイトルとしていることは錯誤でも矛盾形容でもなく、ストア的なMichèle Lesbreの、「コミューンの範にならって」暮らすことを誇りとする作品には、また一人の反逆者もいる。移民たちを追い払ったViktor Orban、もしくはウクライナに侵攻したプーチンを憎悪する女性が。平和、彼女はそれをとても愛していた祖父が面倒をみてくれた幼少期の「輝く祖国」のうちにしか見いだせない。彼はモーリアックに似ており、キノコを取り、詩を書き、ジュール・ロマンを読んで、釣り糸を垂れる漁師のごとく「たとえ見込みはなくとも世界をのんびりさせようとした」。彼が亡くなった時とほぼ同じ年齢になった今、彼の孫娘はその教訓を忘れていない。彼女は水面の上で、社会をのんびりさせるために書く。

(l’Obs誌 no. 3047 2023年3月2日)