平和主義者の皇帝

日本で最も崇拝される人物でありながら、彼は最も人権を持たない人物でもある。象徴としての役割に追いやられながらも、現在の元首であるアキヒトは、政府の国家主義者たちがよみがえってくるにあたって、これを鎮める意思を絶妙なタッチでなんとか作り上げることができた。それは国民によって支持された「節制・地味さ」である。


皇居が固まった一件
昨年10月31日に行われた秋の園遊会で、列席者たちは息をのんだ。燕尾服を着込んだ政治家の中から這い出してきた若手参議院議員、もとはテレビタレントであるヤマモト・タローが直接天皇に手紙を渡したのである。フクシマの犠牲者たちの悲惨な現状に国家元首の関心を引くべく、ヤマモト・タローは皇室の厳格なしきたりに背いた。天皇からのお召しがない限りは、こちらから働きかけてはならないのである。直ちにこの手紙は宮内庁侍従によって押収された。宮内庁とは天皇の挙動を管理する機関である。

その後の数日間、政治家やメディアは、ヤマモト・タローが天皇を政治利用しようとしたとしてこれを非難した。しかし、12月23日に80歳の誕生日を祝った天皇アキヒトは「雲の上の人物」であらねばならない。世俗を志向する国家の中で聖なるものと崇められ、戸籍(彼には姓がない)や参政権表現の自由などの市民としての基本的人権は剥奪されており、社会学者ヤタベ・カズヒロによれば、天皇は「社会的な無重力状態」のうちにある。日本国憲法第一条の文言にあるように天皇は国家の象徴、国民の統一の象徴であり、彼のおかれた立場はとても曖昧である。

世界でも最も古い王朝の継承者であり、神話の時代から連綿と続く流儀で統治し、太陽の女神アマテラスをその祖先とするアキヒトは、それにも関わらず市民権の概念に関して最も意識の高い日本人とみなされている。彼の流儀として、彼は公務に登場する際に控えめに「標識を置く」ことがあり、それは超えてはいけない限度を示し、ある価値観を想起させるものである。彼の父である昭和天皇は、第二次大戦に対してその責任の一端を担っており、そのためにイメージが損なわれているが、それとは対照的にアキヒトは民主主義の価値観に愛着を持っている。

美智子皇后とともに、彼は皇室のしきたりが許す限り国民の身近にあろうと心がけているが、特に3.11の災害後には格別である。最近彼は、自分が火葬されることを希望しており、これは日本では通常行われている風習ながら歴代天皇は土葬されてきた経緯があるのだが、さらに別々の墓、天皇の方が大きな墓ではなく、皇后の隣に安置されることを希望しており、多くの国民はこれを天皇が国民に近い位置にありたいと願う象徴的な言動ととらえている。


明治時代における絶対権力者
1959年に当時平民の家柄であったショウダ・ミチコと結婚して以来、アキヒトは皇太子として、皇室のイメージをヨーロッパ王室のそれとは異なる、家庭的で堅苦しくないものにしようと心がけていた。たとえば二人でテニスをしたり、皇太子妃が食事の支度をしたり、3人の子育てをする光景が放送された。1970年当時の作家ミシマ・ユキオがサムライ風に割腹自殺をするような時代では、このようなイメージは大胆であった、とある宮内庁報道担当者(?)はいった。

19世紀の半ばまで、伝統的に天皇神道の宗教体系の中で神と人間とを仲介する祭司の役割を担っていた。このようなアニミズムは日本の最初の信仰の形態であり、仏教が6世紀に伝来してからもこれと共存している。明治時代 (1868-1912)は、天皇を絶対権力として、同時に伝説上の創始者に起源をもつ「現人神」であるとして単一民族国家を創設し、好戦的な国家主義を促進していく中心人物とした。

1945年の敗戦以後、天皇の社会的身分は憲法によって再規定され、この制度はアメリカ人によって解体されたのだが、しかし彼らは天皇の公務を支援し続けている。1989年の皇位継承にあたって、アキヒトは憲法の諸原則を尊重することを厳粛に宣言した。


韓国での「痛惜の念」と市民としての布石
父親の残した重い責任があるにもかかわらず、アキヒトは、首相アベ・シンゾウをはじめとした右翼がするように、日本の戦争犯罪を過小評価するようなことは決してしなかった。首相とはちがって、天皇軍国主義の聖地である靖国神社には決して行かない。そこでは国家のために死んだ者たちの栄誉を称えているが、1978年以後は、極東国際裁判で死刑とされた戦犯も合祀されている。

ソウルでは1990年に、日本の朝鮮併合(1920-1945)に対する「痛惜の念」を表明している。北京では2年後に、わが国が「中国国民に与えた多大な苦難」を喚起した。確かにこれは外務省によって計算された言葉ではあるが、誰がこのような事態を敢えて忍ぶであろうか。1999年に日本政府が、教育施設における国歌・君が代の斉唱を義務化したときにも、これが「陛下の国よ永遠なれ」という天皇に向けた歌詞であるにも関わらず、アキヒトは、強制はよくありませんね、と表明している。

昨年12月の80歳の誕生日におけるメッセージは、天皇が市民としての幾つかの新たな布石を打つ機会となった。彼は「連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築いた」ことを特に喚起した。控えめな常套表現ながらそれでも憲法に言及することによって、アメリカから押し付けられた条文を改訂しようと彼に呼びかけるアベ・シンゾウに、日本人の多数派がこの心情に好意的であるにも関わらず、異を唱えるものである。

アキヒトはこの公式声明で、54年間彼とともにあった妻にも感謝の意を表した。菊の御簾の裏に身を投じた女性の宿命が、しきたりによってしばしば言動を制限されるものであれば、これは常套句ではあっても無意味ではない。これは鬱の時期を経験し、数ヶ月間失声症となった彼の妻を尊重するものである。

それにしても1993年に皇太子ナルヒトと結婚した皇太子妃マサコの運命とは。彼女は外交官であり、海外の最高の大学(彼女の場合ハーバードとオクスフォード)で教育を受けたエリートに属し、輝かしい経歴が約束されていた。皇居の堀を飛び越えたこの快活な女性は、厳格な皇室の制約に適応できず「悲しみの皇女」となった。


夜遊びや派手な交遊
ナルヒトとマサコには、アイコという娘が一人いるのみである。男系主義の皇室規範が何も変更されないならば、彼女は皇位を継承できない。アキヒトの第二皇子の第三子となる従兄弟が優先順位となる。日本のフェミニスト達は、自分たちの主導すべき戦いは他にあると考えており、この件は彼らをほとんど動かさない。皇室は、日本の報道関係者が好んで取り上げるテーマでもない。

女性週刊誌やイギリスのタブロイド紙のようなものがこの件を取りあげるが、それは控えめである。監視機関と軽率なジャーナリストは皇室から追放されるリスクがある。皇室メンバーが登場するのは公的行事に限られる。ジェット機族の上層部のような夜遊びや派手な交遊はない。ダイアナ妃の葬儀のような象徴的な儀式からも同様に慎重に距離を置いている。

古めかしい貴族趣味的なイメージのある時代錯誤的な宮廷内の生活は、日本の若い世代の関心を惹かない。それは、日本人が天皇制を終わらせたいと考えてることは意味しないのだ。安定して80%の日本人が、天皇の立場に満足していると言っている。フクシマの事故の杜撰な管理における共謀を見れば分かるように、おそらく政治家、官僚と大企業がそこに結束していると思われるからなのだが、しかし天皇が特別な観点から嫌疑をかけらることはほとんどあり得ないのだが... 3.11の犠牲者と話すために彼が膝をつくとき、彼の厚意がそうさせることを疑う者はいない。


(M Le magazine du Monde誌 2014年1月17日 Philippe Pons)