翁長雄志

翁長雄志

日本の政治家

8月8日の沖縄県知事 翁長雄志の67歳での死去に伴って、沖縄県は、アメリカ軍の現前に対する1人の断固とした反対者、そして地域の価値と豊かな文化の精力的な擁護者を失った。

4月に膵臓癌の手術を受け、見た目にも衰弱した翁長氏は、5月には職務に復帰した。宜野湾市の真ん中にあって世界で最も危険な基地の一つとされている普天間基地、これを移転するとされた新たなアメリ海兵隊辺野古基地の沖縄本島北東沿岸での建設に反対する闘いを、彼は遂行することを決意していた。7月の終わりには、前任者ナカイマ・イロカズが承認した辺野古での工事の承認を撤回した。

「もう一回元気な顔を見せて、群衆が沸き立つような言葉を投げてほしい」と、沖縄平和記念館(le Musée de la paix d'Okinawa)の館長で、アメリカ基地に反対する山城博治は日刊紙沖縄タイムスにおいて反応した。

アメリカ政府は「心からのお悔やみ」を出し、翁長氏の日米関係への貢献に敬意を表した。継続的な対立関係と成っていた首相アベ・シンゾの政府は、この訃報に遅れて反応した。慣習には従わず、アベ氏がその「沖縄の発展への貢献」に手短に敬意を表したのは、8月9日の長崎原爆記念式典であった。


アメリカ基地への反対者
活動家としての魂を持ち合わせていたわけではないが、翁長雄志は、自らが日本政府による沖縄軽視とみなしたものは決して受け入れなかった。1950年10月に、当時アメリカ占領下にあった県庁所在地である那覇で生まれ、教師であり詩人である真和志村長を父としたこの人物は、東京の法政大学で学び、自由民主党(自民党、日本の現与党)に所属し政界入りした。彼は那覇市長を4期務める。

2014年に、彼は辺野古工事の阻止を公約として沖縄県知事候補となる。1996年以来保留となっていたこのプロジェクトは、この時ナカイマ氏によって承認されたばかりであり、それは沖縄県民にとって裏切りとみなされた判断だった。この問題に対する国民投票の様相となった選挙に対して、翁長氏は自民党との縁を切り、このプロジェクトの反対派の大規模な支持を得て無党派となった。圧勝を収めると、彼はこの工事を止める法的闘争に身を投じる。日本政府との緊張が高まり、政府は「これは唯一の解決法である」と主張する。内閣官房長官スガ・ヨシイデは2015年の始めに、一連の工事は期限内に進められるだろうと発表する。翁長氏は彼を、沖縄人を「蔑視している」として非難する。

ほぼ絶えることのない中央政府との対立は、極右からの絶え間ない攻撃をもたらしたが、だからといって日米安全保障条約を拒絶することなく、翁長氏はこの沖縄問題を国際化する方針を選択した。彼は沖縄の立場について訴えるためにアメリカを訪問し、ジュネーブの国連人権理事会で発言する。あらためて彼は、かつては独立した王国であり、1879年に日本によって併合された沖縄の悲劇的な歴史を語る。

この地域の住民は、第二次世界大戦中に、日本帝国軍による虐待(les mauvais traitements)を受ける。1945年には、沖縄諸島で行われた凄惨な戦闘で沖縄住民の1/3が命を落とした。さらに沖縄は、アメリカ軍の基地を押し付けられる。現在、沖縄は日本の国土の0,6%に相当するが、アメリカの施設の74%を、その治安問題と環境問題ごと受け入れている。翁長雄志は「この負担を日本全体に分配してほしい」と繰り返していた。

彼の後継者問題が現在生じている。沖縄行政のトップの代行は、副知事にて決定している。政府は、次の選挙でより協調性のある知事が選出されるよう、すでに躍起となっている。政府は宜野湾市長サキマ・アツシに賭けているが、人望を集めた翁長氏の死去が国民に呼び起こした感情が影響した、難しい選挙戦が予想される。
(Le Monde紙 2018年8月11日)